観察する、ということ

私にとって、福永光司「荘子」(中公新書)は、「観察」という方法を本当の意味で学ばせてくれた本になる。そのあとがきに、福永氏自身の少年時代の体験が紹介されている。
母親からある日、次のように問いかけられたという。「あの曲がりくねった木をまっすぐ見るには?」

その木はどこからどう見ても曲がりくねっていた。切ってから無理やりまっすぐに整形する、何で答えでもなさそうだし。福永少年はしばらく稽えたがわからず、降参した。その時帰ってきた母親の答えは「そのまま眺めればいい」。なんとも人を食ったような答え。しかし私は、この答えに衝撃を受けた。

私の解釈ではこうなる。私達は、「真っ直ぐ」と聞いたとたん、心の中に真っ直ぐなモノサシ(規準)を設けてしまう。そしてそのモノサシと比較してしまうと、もはや真っ直ぐか曲がっているかしか情報が入らなくなってしまう。判断も真っ直ぐと曲がってるの二択しかなくなる。

しかしいったんモノサシ(価値規準)を脇に置き、虚心坦懐に観察したとしたら。根っこの力強さや、風が木の葉を揺らしているさま、虫たちが樹液を吸いに来ている様子、幹からの香り、様々な情報が五感を通じて飛び込んでくるだろう。その情報量は莫大。価値規準を持つときは「曲がってる」だけなのに。

福永氏の母親が言った「まっすぐ見るには?」「そのまま眺めればいい」という問いかけと答えは、「素直に眺める」ということなのだろう。価値規準を胸に抱いたときとは段違いに情報が飛び込んでくるよ、それが「観察」なのだよ、ということを伝えたかったのではないか、と私は考えている。

観察については、ナイチンゲールの次の言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
この言葉から感じられるのは、「ただ見てるだけ」は観察にはならない、ということ。

何十年見てても観察にはならない。では、「観察」とは、どういうことなのだろうか?私が思うに、「自分の知らないこと、気づいていなかったことに気づこうとすること」なのではないか。昨日と同じであること、自分の知識の範囲のことを再確認するだけの「見る」は観察にならない。

今までの自分では気づかなかったこと、それに気づこうとすること。自分の知らないことに気づこうとすること。それが観察ではないか。
そしてこうした観察は、何かをただ凝視しても気づかない。観察するには、あえて視線を外すくらいの身軽さも必要となる。

「荘子」には、包丁の語源となった料理人、庖丁のエピソードが紹介されている。
庖丁は王様の目の前で牛一頭丸ごとスパスパと解体してみせた。その見事さに王様は驚き、「よく切れる包丁なのだろうな」と聞いた。しかし庖丁は「私は切ってない」という。

「普通の料理人は切ろうとします。そのために刃が筋や骨に当たり、刃が欠けます。何度も研ぐ必要が出ます。しかし私は切ろうとせず、観察します。やがて、筋と筋のスキマが見えてきます。そのスキマに刃を差し入れれば身がハラリと離れます。切らないから刃が欠けることはなく、何年も研いでいません」

なぜ普通の料理人は刃が欠けてしまうのだろう?頭の中の「牛の筋と骨はこう流れているに違いない」という思い込みで切るからだろう。切ろうとしてしまうのは、頭の中の牛ばかり見て、眼の前の牛を観察できていないからだろう。かたや庖丁は。

これまでに牛を解体してきた膨大な体験があるはずだけど、いったんそれを脇に置き、目の前の牛を虚心坦懐に観察する。だから、それまでの牛とはまた違う筋の流れを見極めることができるのだろう。目の前の牛にこれまでの体験を押し付けず、虚心坦懐に眺める。目の前のものから情報をとる。

それが観察なのだろう。
少し卑近な話を。先日、東京駅のみどりの窓口で並んでいたら、担当の人が呼んでるのに気がつかない人複数。そうした人は「ここが次に空くに違いない」と凝視して、他の窓口が見えなくなっていた様子だった。

他方、すぐ気がつく人は、複数の窓口が全部視界に入るように、「見るとも見ず」な感じで見てると、変化にすぐ反応し、空いた窓口にスッと移動していた。変にどこかだけ凝視すると見えないけど、「俯瞰」するとかえってよく見える、という面白い現象。

「観察」というのはともかく、何らかの価値観、価値規準を胸に抱いた途端にできなくなるものらしい。
何かに思い悩んでいる人は、目の前の現象が目に入らず、頭の中の悩み事ばかり見つめてしまう。すると、今目の前で起きてることにすら気づけなくなってしまう。

過去につらい体験があり、そのために過去の記憶がフラッシュバックし、パニックに陥るPTSDという症状がある。これの治療法に、左右に動く光の点を目で追い続けるというものがある。これをしていると、過去の嫌な記憶を次第に冷静に受けとめられるようになるのだという。これはどういうことか。

悩んでいる人は「あの時ああしていれば」「でもあいつがこんなこと言うから」「でももしその時私がこうしていれば」と、恨みと後悔を何度も何度もなぞって、深い轍(わだち)を刻み、その轍から車輪が抜けなくなっている。同じ思考を高速で何度も何度も繰り返してしまうループに陥ってしまう。

しかし光る点を目で追いかけていると、意識はそちらに行ってしまい、悩みをなぞることが難しくなる。すると無意識は、悩みの思考に別な思考法を提案するようになる。やがて、閉じたループだった悩みが、様々な思考のネットワークとつながって、悩みのループから抜け出しやすくなるらしい。

PTSDの事例や庖丁のエピソードから考えるに、私達は見ているようで、自分の頭の中のイメージ、思い込みを見ているだけのことが多い。これはこういうもの、という決め付けがあり、そのために観察できなくなってしまう。今までに知っていることを再確認するだけの作業になってしまう。

観察するには、これまでの知識や体験を脇に置き、虚心坦懐に眺めることが必要。ここはこうなるかも、なんていう期待や予期も持たずに、何が起きてもそれに反応できる心構えを持つ。それが観察には必要なのだろう。
観察には、価値規準は邪魔。それを教えてくれたのが、「荘子」だった。

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