「ほめる」「疑う」ことをよしとする「前提を問う」

「ほめる」は教育界で、「疑う」は思想界で市民権を得た言葉。ほめて育てることは文句なしにいいこと。合理的精神を得るために疑ってかかるのは大切なこと。そう信じられている。しかし私は、教育界で「ほめる」という言葉は滅ぼしたほうがよいと考えている。そして思想界での「疑う」も。

「ほめる」は、ほめる側の願望通りに動かそうという期待がどうしても込められてしまうことが多い。「せっかくほめたのだから、そのお礼に私のいうことを聞きなさい」みたいな変な誘導がかかることが少なくない。「ほめる」は、馬の鼻先に人参ぶら下げて走らせようという意図で行われることも。

しかし実際には、馬の鼻先にニンジンぶら下げても走ろうとはしないだろう。そして子どもも、いざほめてみると動かない、むしろもっと動かなくなることが多い。ほめればほめるほど、いい気になって図に乗り、かつ動かなくなる、という現象をよく見る。ほめたのに。

「百点取ってすごいね!」とほめると、99点ではほめてもらえなくなる、ということを子どもは察知する。しかし常に100点取るのはしんどい。100点ばっかりとると、親も慣れてしまい、驚かなくなってしまうだろう。だとしたら、もう100点取ることに何の意味があるだろう?と気がつく。

で、「僕はいざとなったらすごい」という論理に逃げ込む。過去に100点取ったのを盾に取って。それを「すごい」とほめられたことを言質にとって。「そう、すごいでしょ。やればできる。でも今はやる気がしないからやらないだけ」という理論武装をして、やらなくなる。

でも実は、不安でいっぱい。「100点取ってすごいとほめられたけど、もし必死に頑張って100点取れなかったらどうしよう?もう二度と100点なんかとれないとしたら、どうしよう?ずっと100点取れって言われ続けるのかな。もう二度と、親からほめられることはなくなるのかな」

そんな絶望的な思いが、そこまで筋道立てて考えていなくても、子どもの心の中に発生する。だから、「すごいってほめたよね?ほめたよね?そう、僕はすごいんだよ。やればできるんだよ。でも今はやる気がしないからやらないだけ」という論理に逃げ込む。そして柔らかい自分の心を守ろうとする。

結果をほめるからいけないんだ、プロセスをほめればいいんだ、という話もある。けれど、「いつも努力して、えらいねえ」とほめても、やはり努力しなくなってしまうことがしばしば。子どもだって遊びたい。だらしなくサボりたいときがある。でもほめられるものだからついつい頑張ってしまい。

燃え尽きたりする。あるいは、アダルトチルドレンになったりする。ほめられようとして、そのプロセスを再現しようとして、でも本当に自分のしたいことを我慢して。そして、本当の自分が分からなくなって、破綻する子どもがいる。プロセスをほめるのも、いかがなものかと思う。結局子どもを操作する。

で、私は「ほめる」という、大人の側が子どもをコントロールしよう、意のままに動かそうという成分が混ぜられがちな言葉を、教育界で使わないようにした方がいいんじゃないか、良い意味の言葉としてはもう使用しないほうがいいんじゃないか、つまり滅ぼしたほうがいいかも、とさえ考えている。

「ほめる」の代用品というか、むしろこっちのほうがいいんじゃないか、と思っているのが、「驚く」。驚くには、こちらの期待から外れることが必要。期待通りだと「俺の思ったとおりだ」という反応になって、子どもからしたら手のひらで驚されている感が出て、面白くない。

親の想定を超えた、そう来るとは思っていなかった、というのが「驚く」。「え!もうそんなことができるようになったの!」と驚くことは、「ほめる」に似ているとよく言われるのだけれど、ほめる場合はだいたい「じゃあ、次はこれをやってみようよ」と期待、誘導が入る。

でも、期待、誘導を大人がしてしまうと、子どもは、あることに気がついてしまう。「もうこの先のことを大人は知っているし、なんなら上手にできるのだな」ということを。そして、ほめはしても驚かないんだろうな、と。もしできたとしても、どこかで「俺が誘導したからだ」と、功績を自分のモノに。

子どもは親を、大人を驚かせたい。なのに大人がすでに知っていたりできていたら、きっと驚かない。だとしたらつまらない。だからやる気を失うことが多い。
驚くには、誘導しないこと。期待しないこと。教えないこと。ただ子どもが「できない」を「できた」に変えた時、驚くこと。すると。

子どもは、「できない」を「できた」に変えた時、大人に驚いてもらおうとする。「え!それ、できるようになったの!」大人の側も、変に示唆したり教えたりしていないから、それができるようになったときに自然に驚ける。すると、子どもはさらに次のステージに進んで、驚かそうとする。

さて、次は「疑う」について。思想をやる人間がみんな「疑う」ようになり、深い思索をする人間はみんな疑うもんだ、という「信念」を生んだのは、恐らくデカルトだろう。デカルトは「方法序説」で、私たちが特に疑ってもみなかったことを疑い、思索を深めていった。

デカルトは「方法序説」の中で、ある人物を紹介している。リュクールゴス。この人物は、古代ギリシャの都市スパルタ(ラケダイモーン)を根底から作り替え、スパルタをギリシャ屈指の強国に育て上げた中興の祖、として、プラトンも「国家」の中で紹介している人物。

で、デカルトはリュクールゴスのことをなぜ取り上げたかというと。ブルドーザーですべてをなぎ倒し、根底から覆し、大地を真ったいらにした後、リュクールゴスみたいな優れた人物が都市を形成したら、理論通りの美しい都市が創り出せる、とした。そしてそれを思想に適用すると。

これまで素朴に信じてきたこともすべて疑い、否定し、ありとあらゆるものを除去してから、正しい事柄をくみ上げて思想を再構築したら、誤りを一切含まない美しい思想を持つことができる、とした。このメッセージは、当時の思想家たちを魅了した。まるで神のように、思想の王様になれるのだから。

疑って疑って、疑い尽くせば、誤りをまったく含まない思想が再構築できる!なんてすごい説得力!その後の哲学者、思想家は、デカルトの「方法序説」を読んでたり読まなかったりしても、このやり方を無意識のうちに実施しようとしてしまう。そして、絶対的に正しい思想を構築しようとしてきた。

これこそが、「疑う」ことの副作用だと思う。素朴に信じていた、信じていたいことまですべて疑うというつらい作業をくぐり抜けると、「こんなにつらい思いをしたのだから、その結果得られた思想は、絶対正しいものだと信じたい」という心理(代償)が働きやすい。自分の思想を信じ込んでしまう。

疑うからこそ、誰よりも自分は疑り深く、慎重に考えたからこそ、誰よりも自分は正しい。間違っているはずがない、と信じ込む。疑うからこそ信じ込む、という妙な現象が起きる。

疑うことをやめてはいけない、永遠に疑い続け、自分が真実をつかんだと思っても疑い続けよ、という話もよく聞く。しかしそれではキリがない。そうはいっても便意を感じればトイレに行った方がいいし、腹が減れば食べたほうがいい。それをいちいち疑っていたら生きていけない。

そして、「俺は徹底して疑っている」という自画像が、結局「俺ほど深く考える人間はいない、すなわち、俺の言うことは絶対正しい」という思い込みを生む。そうであってほしい、という願望を事実と取り違えてしまう。徹底して疑うからこそ、信じ込みやすい人間を生んでしまう。

人間はおそらく、「疑う」ことを永遠に続けられるようにできていない。その無理を補完しようとして「いのち」は、本人の気づかないうちに、いろんなことを信じ込ませるのだろう。「疑う」は、人間という限りある身には不適当なもののように思う。

で、私は、副作用のきつい「疑う」の代わりに、「前提を問う」に置き換えることを推奨している。どんな論にも、その論が正しいと考える前提がある。その前提が何かを問えば、大概のことは突き止められる。どこまでは正しくて、前提のどれが変わると正しいと言えなくなるか。

洗濯物を乾かすのに、暖房とクーラー、どちらの方が乾くだろうか。中学校では、飽和水蒸気量というのを習う。部屋の温度が高い方がこの飽和水蒸気量というのが大きくなって、空気が抱えられる水蒸気が増えるから、暖かい方が洗濯物は乾く、ように思える。しかし案外、クーラーの方が乾いたりする。

暖房機は空気は温められても、部屋の中の水蒸気を減らすことはできない。しかしクーラーは、部屋の温度は下がるかもしれないけれど、部屋の空気の水蒸気を中で結露させ、部屋の外に出す。部屋の中の水分を外に吐き出す機能がある。だから、クーラーの方が案外乾いたりする。

「水蒸気を部屋の外から出さない」という「前提」で考えるなら、中学校の理科で習ったとおり、飽和水蒸気量が大きくなるんだから暖房で気温を上げたほうが良い。しかし「部屋の外に水分を捨てる」と前提が変わるなら、話が違う。このように、前提を問うと、結果が違ってくる。

私は、思想にしろ科学にしろ、「疑う」必要はないと考えている。「前提を問う」で十分。その論が正しいとされる前提は何だろう?と問えば、その論が正しいと考えて構わない範囲と、そうでない範囲が分かる。それで十分なのでは?と。

で、「前提を問う」をすると、新しい発見も可能。たとえば、金属の研究では、水素ガスにさらすと脆くなる、ということが常識として知られているらしい。水素脆化という。教科書的な知識。そこである研究者が、ものすごい濃度の水素にさらしたらどうなるのか、実験してみた。すると。

脆くなるどころか、丈夫になった。水素は金属に染み込み、通過してしまうのが普通なのだけれど、超高圧の水素にさらしたら、通過しなくなった。これまでの常識が覆ってしまった。水素脆化という現象は、「中途半端な濃度の水素にさらされたら」という前提では正しいけれど、その前提が「超高圧」だと。

違う現象が起きた。
教科書に書いてあることは、すべて、無言のうちに「前提」が隠されている。その前提が成り立つうちは、教科書に書いてある通りのことが起きる。これは別に疑う必要はない。正しいと思って受け入れて構わない。けれどもしその前提を変えたとしたら。

教科書とは違う現象が起きるかもしれない。そう考えると、教科書はイノベーションの宝庫となる可能性がある。その現象が起きる前提を問い、まだ誰も検討したことのない条件を実験してみたら、前提が変わるのだから、別の現象が起きる可能性がある。

「疑う」なんてことしなくても、どんなことにも「前提を問う」ことさえ心がけていれば、次々に新しい発見ができ、考えをバージョンアップ、アップデートできる。

「疑う」なんていう副作用の強いやり方はもうやめにして、「前提を問う」に置き換えたほうが良いように思う。
「ほめる」を教育界から滅ぼし、「疑う」を思想界で評価するのをやめ、それぞれ「驚く」「前提を問う」に置き換えたほうが良いのでは?と前提を問うてみた。

それぞれの論がどんな前提を持ち、その論が正しいとして扱ってよい限界を明らかにできれば、当面妥当性のある考え方として、受け入れて構わないと思う。もし異なる前提が見つかれば、そのとき置き換えればよい。すべては前提をもつ「仮説」ととらえ、当面、有用であれば受け入れる。

前提が変われば、別の妥当な仮説を探すことにする。それで十分。この方法なら、すべてを疑うなんてしんどいことを続ける必要はない。当面問題ないならアップデートもしない。問題が見つかれば前提が変わったのだから、アップデートする。そんなのでよいように、私は思う。

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