「才能」考

正直、才能というのが私にはよくわからない。才能は生まれつき、と考える人も多い。確かにそうした事例がある。非常に足の遅い友人がいた。マラソンだとかなりの長距離も走れるけど短距離走でも同じ速度。速筋が生まれつき乏しいらしい。この友人に短距離の才能はなかったろう。

ただ、私は知的な才能に関しては、「鍛える」という後天的要素も非常に大きいので、よくわからないでいる。息子は赤ちゃんの頃から異様に図形チックなものに興味があったが、図形のセンスがあるわけでもないようだった。お風呂に浮かぶおもちゃを取ろうとして、指先で突いてしまっていた。

他方、娘は水面に浮かぶおもちゃを、指先で突き飛ばすことなく、スッと取り上げることができた。図形的センスは娘の方があるようだった。しかし息子と違って図形のことが好きなわけではない。あくまで自分のしたいことを成し遂げるのに図形的センスを利用するだけ。センスは道具でしかなかった。

これに対し、息子はドアノブを回したら突起が出たり引っ込んだりする様子を30分くらい観察し、実験して飽きなかった。娘はいきなりうまくいく方法をとってしまうのだけど、息子はうまくいく方法だけでなく、うまくいかない方法もすべて試さずにはいないタイプだった。

その結果、どうなっているかというと、息子の図形的センスは非常に磨かれている。三歳になる前からずっとピタゴラ装置を作り続けてきて、実に複雑なものを作るようになった。好きこそものの上手なれ、という言葉は息子のためにあるような言葉のように思う。

他方、娘は図形的センスの良さを生かして、大好きなすみっコぐらしのお家を作ったり、車を作ったりする。そのセンスの良さにビックリさせられるのだが、あくまですみっコたちが快適に暮らすための道具立てを作るのにセンスを生かすだけ。図形そのものが好きなわけじゃない。

こう考えると、「才能」は「センス」と「好き嫌い」に分けて考えることができるように思う。センスの良い人というのはいて、何をやらせてもサラッとこなしてしまう人が世の中にはいる。けど、それが別に好きというわけでもないなら、器用にこなすという程度にとどまる。

センスがあるとは言えないけどともかく好き!という場合、センスのある人と比べて最初はモタモタするし、うまくいかない様子を見せるから「どんくさい、才能がない」ように見えるのだけれど、好きだから観察し、好きだからいろいろ試行錯誤し、だからその分野の知識経験が膨大になる。

森毅さんのこの言葉も面白い。新しい分野を覚えられず、質問もトンチンカンな的を射ないものばかりだった人が、数年たつと第一人者になり、一番深く理解している人になったりするのだという。数学でもそういうことが起きるというのが面白い。
https://twitter.com/moritsuyoshibot/status/1435024482897326086?s=20&t=_8h_igye3fc0BmtIZNOEcw

私は親戚の中で創造性が最もないという点でコンセンサスが得られていた。確かに創造性のかけらもなく、人のを見てマネをする、正解をそのままコピペする、ということしかできない人間だった。それが悔しくて、どうにかならないかと考え続け、観察し、試行錯誤を繰り返した。すると。

凡人でも創造性を発揮するためのコツが結構集まり、それで本を書くという奇妙なことが起きた。はじめから創造性を備えている人は、かえってなぜ創造的なことができるのか言語化していない。私みたいにできない人間だから言語化できる、という奇妙なことが起きる。
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%82%89%E3%82%81%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%8A%80%E6%B3%95-%E7%AF%A0%E5%8E%9F-%E4%BF%A1/dp/4788908077/ref=m_pd_aw_sim_sccl_3/358-1954413-0299242?pd_rd_w=H3rkU&content-id=amzn1.sym.275e9dc9-c65d-4d15-84dc-8fd3f0ece5f5&pf_rd_p=275e9dc9-c65d-4d15-84dc-8fd3f0ece5f5&pf_rd_r=XNJHR9YXJZ9P86ND6QZY&pd_rd_wg=y0fib&pd_rd_r=3d8bd9bb-7188-4d22-8ed5-eee999ca0792&pd_rd_i=4788908077&psc=1

私は人付き合いが苦手で、そしてきわめて下手だった。結婚披露宴の時、「こんなに新郎の悪口を聞く披露宴に初めて参加した」と評判になるほど、私の不器用エピソードは実に豊富。そんな私が、部下育成の本を書いたり子育ての本を書いたり、不器用さから脱却するための本を書くとは、不思議なこと。

「才能」という言葉を使うなら、子どもの頃の私を見て才能があると見抜ける人はいないだろう。実際、私は24歳くらいまで、すべての事柄がモヤがかかったように見えていた。そのころから少し晴れてきたけど、ある程度すっきりしてきたのは30歳を超えてから。それまで鈍にもほどがあった。

私は余りにも鈍だったので、鈍くさいのから抜け出したいという欲求が非常に強かった。だから器用な人、センスのある人を観察し、不器用な自分でもマネできる方法はないか、というのを一つ一つ仮説を立てては試行錯誤し、積み上げていった。それがたまたま、本を書いたりツイッターでのネタになってる。

才能は遺伝子で決まる、と考える人もいる。遺伝子は配列が決まっていて、その人が生きている限り配列は変わらない(がん細胞は別)から、才能は遺伝子にもう書き込まれているのだ、と考えられているのだろう。ところがここで奇妙な話が。「エピジェネティックス」と呼ばれている。

遺伝子は存在すればいつも同じように働くかというと、そうでもない。遺伝子には時折フタがされることがある(メチル化)。逆に、フタされていて働かないでいた遺伝子が働きだすことがある(脱メチル化)。鍛えることで、後天的に隠れていた遺伝子が活性化することがある。

塾で子どもを指導していて、常々不思議に思うことがある。学ぶことが楽しくなり、知的活動が増えてくると、「賢そうな顔」になること。もしそのままだったら、あまり物事を考えていなさそうな顔のまま大人になっただろうな、という子どもが、知的好奇心を取り戻すと顔立ちが変わっていく。

近年、腸内細菌の研究が盛んに進み、腸内細菌の生態系が人間の細胞に大きく影響を与えていることが分かってきている。やせやすい微生物生態系、太りやすい生態系というのもあるらしい。知的活動に影響を与える微生物生態系も。

そういう話を聞くと、こう想像したくなる。知的活動を好むようになると、腸内細菌もそれに合わせて変化し、その変化がさらに脳に作用し、知的活動をさらに促し、それがさらに腸内細菌の変化を促して・・・という好循環が起きるようになるのでは?と。

顔立ちが変わるというのは、非常に興味深い。中国からの観光客の顔立ちを観察していても、ここ20年で大きく変容している。食べるものが違うからか、生活スタイルが大きく変化したからか。風貌が大きく変化し、顔貌も変わり、最近は日本人と見分けがつかない旅行客も増えてきた。

後天的に肉体も頭脳も大きな変化をするのだとしたら。「エピジェネティックス」のように、後天的にも寝ていた遺伝子の活性化が起きるのだとしたら。腸内細菌の活動で私たちの精神にも大きな影響があるのだとしたら。才能を先天的ととらえるのは狭すぎるような気がする。

一卵性双生児が別の環境で育てられた時、どうなるか、という研究がなされていて、遺伝子で6割は説明がつく、という論文を読んだことがある。6割という数字を見て、かなり遺伝子で決まるんだな、と思う人がいるかもしれないが、私は「なんだ、6割でしかないのか」という風に解釈している。

私が思うに、後天的に才能を伸ばす学問である教育学は、いまだに雑で未熟な段階だと感じている。「ほめる」という言葉について、私はこれまで様々な分析をしてきたけれど、この言葉だってずいぶん雑であいまい。このため、有効な指導法というのが本当の意味で確立されていない。

私は「訊く」ことと、「驚き、面白がる」ことが有効だろう、とこれまで何度も述べてきている。「ほめる」よりはずいぶん解像度を上げることができたのでは?と感じている。こうした解像度を上げた言語化が、まだまだ教育の世界では足りないような気がしている。

一卵性双生児の経過観察で、6割も遺伝子の影響が認められるというのは、逆に言えば、遺伝子の影響以外の要素がバラバラすぎて、子どもの成長に影響を与えることができていないからだ、と解釈している。もし、子どもの自発的な成長を促す接し方ができていたら、遺伝子の影響は3,4割に減るかも。

保護者の接し方次第では、子どもは自分が好むことをやらせてもらえない可能性がある。私は赤ちゃんの息子がドアノブでいろんな実験をしている間、30分以上も抱きかかえていた。中途半端な高さだから腕が疲れて仕方なかったけど、熱中しているのを邪魔したくなかった。

息子が離乳食を食べるようになった時、食器をわざと落とすようになった。私もYouMeさんも、好きなようにさせた。息子は今、「落下」という現象を発見し、その現象がいったいどんなものか突き止めようとしている。その邪魔をしないよう、何度でも食器を落とさせた。

ある日、息子はスプーンで食器を叩くと音が鳴るということを発見した。叩き方で音の大きさ、音の種類も変わるということを発見し、ひたすら試行錯誤を続け、その現象を突き止めようとしていた。それは大切な学びだと考え、私もYouMeさんも好きなように叩かせた。

「なんだこれは?」と思うものに出会い、興味関心が湧いた時、それを追究せずにいられなくなる。子どもはそうした瞬間にあふれている。突き止めようと何度も繰り返す。その試行錯誤から、子どもは膨大な情報を語感から得て、その現象を理解しようとする。それが巨大な学びとなる。

もしこうした接し方ができたとしたら、その子の能力は大きく鍛えられるように思う。満足するまで何度も試行錯誤するから、経験値が膨大になる。もし持てる才能があるならそれは最大限開花するだろうし、能力はその子なりに最大化するだろう。

ところがこうした子どもの環境を大人の側が十分提供することができているとはいいがたい。一卵性双生児の経過観察でも、子どもの探究心を満足させる家庭とそうでない家庭に分けて「実験」するわけにいかない。そんなことをしたら、どちらかの子どもの一生を台無しにしかねないから。

だから、一卵性双生児の経過観察の研究は、環境に関しては「成り行き」に任せるしかない。このため、意図的な実験環境を組むことができないこうした研究では、遺伝子の影響だけが大きくクロースアップされる。探究心を大切にする家庭を意図的に設けることもできないのだから。

また、仮に「探究心を大切にする家庭」というのを実験で設けようとしても、これまでは難しかったろう。探究心を大切にしようとしている親でも、二種類に分かれる。先回りしてしまう親と、「後回り」する親と。

子どもの探究心を高めようと、親が先回りして「こんなのはどう?」「このオモチャおもしろいよ!」と勧めると、面白いことに、子どもは興味を示さないことが多い。親がそのおもちゃのことをよく知っていることを察して、「これでうまく遊べても親は驚かないな」と気がつき、興味を失う。

子どもは親に驚いてほしい。「え!そんなことを発見したの!」「わ!こんなこともできるようになったんだねえ!」と。でも、親がオモチャを先回りして勧めるときは、親は遊び方を熟知していて、「ほめる」ことはあっても驚かないことに子どもは感づく。だから興味を失ってしまう。

しかし子どもが何に関心を持つかなんて制御できるわけがない、と、良い意味で諦め、子どもが自ら興味関心を持ったものがあったら、なるべくその環境を維持できるようにアシストする、という「後回り」の姿勢だと、子どもは好きなだけ探究できる。そして。

大人は何も教えないのに子どもがどんどん発見し、工夫していく様子を見て、「教えもしないのに自分で工夫し、発見していく!」ということに「後回り」で驚くと、子どもはしてやったりと嬉しくなる。ますます探究心を強め、大人を驚かそうと企む。

そう。「子どもの探究心を大切にする」と、自身を評価している親でも、「先回り」するタイプか、「後回り」するタイプかで、全然結果が違ってしまう。こうしたことも、教育学で十分言語化されていたかというと、微妙。学問として通説化はまだできていないように思う。

教育学は、小難しい音読み熟語で表現したままで、言語化をせずにあやふやに使っているものが多い。自己肯定感も、なんだか独り歩きしてよくわからん言葉になっているし、そもそも私はたいして重要視していない。日本の場合は自己肯定感ではなく「他者からの肯定感」の影響力が大きいし。

もし、教育学がもっと分かりやすく、誤認されにくい言葉で、子どもと接するときに何が必要で、どんなかかわり方が大切なのかを伝えることができるようになったら、子どもの才能はもっと大きく開花するように思う。後天的な理由で抑えられていたもののフタが外れるように思う。

せめて、子どもが好きで取り組むこと、楽しくてたまらなくて、追究せずにいられないという状態、そうした状態をなるべく確率よく再現できる環境で育てられたら、多くの子どもは学ぶことを楽しみ、その能力を最大限に発揮できるようになると思う。もしそうなれば。

この子は先天的に才能がないのだ、と思っていたら、意外な才能を発揮する、という現象が次々に起きてくるように思う。トマトは屋外で育てたら数個の実をつけるだけだが、理想的な環境を与えると千個、1万個も実をつけるように。

もちろん、サボテンの子もいれば蓮の子もいるかもしれない。サボテンに水を与え過ぎたら腐るだろう。蓮を砂漠に植えたら枯れるだろう。サボテンはサボテンの好む環境で育てるべきだし、育ってもサボテンはサボテンのままで、蓮にはなれないかもしれない。

しかし、サボテンとしての才能を開花させることは可能だろう。それは環境次第。でも、現在の教育学の現状は、サボテンはどう育てたらよいのかもまだはっきりしていない、という状態のように思う。

だとしたら、子どもの才能を後天的に育む手法が確立していない現段階でどれだけ一卵性双生児の経過観察を行っても、遺伝子の影響しか検出されないのは当たり前。検出したい手法がそもそも確立できていないのだから。子育ての有効な手法を、私たちはまだ十分に言語化できていない。

私たちはそろそろ、こうした言語化を進める必要があるように思う。それまでは、才能が先天的に決まると考えるのは早計だと思う。私は、後天的に改善できることが山ほどあると考えている。そして改善しやすいのが後天的環境なら、ぜひそちらに注力していくほうがよい、と考えている。

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