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何故、自己啓発本は無くならないのか

若い頃の私は、そこそこの読書家だった。
人生で本はそこそこ読んだな、と自負してる自分だが、自己啓発本は今まで一切読まなかった。

何故か?なんとなく自己啓発本って、意識高い系が読んでるイメージがある、本当の私はどこ?な自分探し用のものだと思ってる、ビジネス本なんて経営者クラスが読むんじゃねーの?と、とにかく自分とは縁のないジャンルだと思っていた。後、胡散臭い自分アゲ系(受講費高い)印象とか。

まあ小説読んでれば、なんとなく自分のスタイルとか思想って確立されない?作家の影響受けるというか。私はがっつり山田詠美に影響受けて育ってきた。山田詠美は良いよ。分かりやすい。余計な言い回しはなく、厳選された言葉で綴られてるので読みやすい。20代にデビューしてから今も現役で執筆されてる女性作家。年齢とともに表現方法やテーマは変われど、彼女の芯の部分は変わってないなあ、と思う。これこそ「スタイルが確立されてる」といったところか。こうなりたいと常々思っていた、今でも憧れの女性である。

山田詠美読んでれば自己啓発本なんて用はないか、とすら思っていたが、2度の適応障害で休職したうつ病10数年目の私は、若い頃のように、自分のことぐらい自分で分かるくね?と言ってられない状況になってしまった。


現在、障害者向けの就労移行支援センターに通っているが、通い始めでまず学ぶのが「自己理解」。いや40数年も生きてりゃ大体は分かるけどな、と思いつつ、今後の就活に向けて真面目に受講したが、これが意外と面白かった。

結論から言うと、案外、自分の事を分かっているようで分かってないもんなんだな、と感じた。

面接でよくある質問で「あなたの特技は何ですか?」「あなたの長所と短所は?」なんてのがあるが、病気になるまでは接客業一本だったので、とにかく「人と話すのが大好きで」「笑顔の接客に自信あります!」とそこ一点張りで面接を受けてた私。しかしうつになり、A型勤務を経て、接客に関してはかなりブランクがある状態のアラフィフで、今、私の強みは何なのか?
あーこんなことなら何かしら資格取っておけばよかったと後悔しても後の祭り。自分は死ぬまで現役接客業をやるものだと思っていた。人生、どう転ぶか分からないものである。

週1回2時間、1か月通して自己理解に関するプログラムを受けた私。流石に、え?私ってこんな一面が?みたいな未知との遭遇はなかったが、若干の認識の違いがあったことに気付いた。

例えば「騒音」。通所してすぐの私はまずこれを「苦手です」と意思表示した。7年勤めたA型事業所のあれこれを思い出す。業務中の関係のないお喋り、奇声、指導員に対する利用者のモラハラ、パワハラ…
お前ら喧しいねん!!と何度発狂しそうになったか分からない。これが適応障害の原因の一つで、2か月休職した後、退職に至った。
とにかく「騒音」に対する憎しみは半端なものじゃなかったが、じゃあ誰もが一切喋らない環境じゃないと働けないのか、と言われれば別にそんなことは無い。施設外労働で一般企業に障害者枠で2年働いていたが、仕事に関する話で、真剣に話してる職員や、軽口叩いて軽く笑ってさっと仕事に切り替える職員を見るのは好きだった。なんなら私も頑張らな、と気合が入った。

その矛盾を突き詰めた結果、私は「騒音」じゃなく、「理不尽な環境」が苦手だったことに気付いた。もちろん理不尽なんてみんな苦手だろうが、私の場合、見逃せないというか放っておけないというか、それで誰かが困っていたら手を差し出さずにはいられないのだ。あまり自分で言いたくないけど、私は正義感が強い方だ。A型勤務ではどんな状況でも私は立場の弱い人間の側にいるようにしたし、理不尽に詰められてる状況を見れば間に入り、しょっちゅう喧嘩もしていた。おそらく若い頃にいじめに遭った経験がそうさせているのかもしれない。自分の心の傷なんてとっくのとうに癒えてはいるが、やはりあの理不尽な環境は許せないってのがずっと根元にあるんやろなあ。

こういった些細な事でも可視化することで、自分にとって許せないものは何か?とか、自分ってどんな性格なのかが分かるようになる。これも自分で言いたくないって言うか認めたくないんだが、私はいささか繊細で、周りに気を遣う性格である。嫌だ、自分で繊細とか言ってんの、とか思うんだけど、うつになって10年以上経って、2度も適応障害患ってたら、少なくとも図太くはないんだよな。ああ嫌だ。


て訳で、自分の見たくない部分も可視化されるので、人によっては受講中に気分を害する人も出てくるようで、「気分が悪くなったら無理せず席を外して下さい」とスタッフも声を掛ける。良くも悪くも「自分を知る」ということだ。意識高い系なんて言ってられない、そんなレベルじゃない。

センターの管理長の話を聞いたのだが、昔は自分の事なんて分からずとりあえずお金が欲しいから営業に飛び込み、向いてないと悟って退職後、畑違いの福祉事業に入社した。障害者の知識なんて当然無い。福祉って何やってるのかも分からず、最初はとにかく勉強しまくったそうだ。
A型でお世話になった施設責任者も昔は某大手電機メーカーの営業として新卒入社したものの、そこでの待遇が良くなく、1年で30キロも瘦せたそうだ。一般で働いたものの、環境の悪さや病気などで退職を余儀なくされ、挫折した後に福祉事業の世界に入った人って結構いるかもしれない。

自分もそうだったから分かる。若い頃なんて特に、自分の事なんか「なんとなく」でしか分かってないのだ。そしてその自分は、年齢や環境とともに変わるのだ。


何故、自己啓発本が無くならないのか?
何故、分かりきった、当たり前な内容と思える本が、いつの時代にも必要とされているのか。
その答えが分かった気がする。
自分のことは意外と見えていない。そして当たり前のことが当たり前のように出来ない、人間社会の闇もあるように思える。


残念ながらこの世はシビアで残酷だ。全ての努力が必ずしも報われるわけではないし、自分一人の心がけではどうにもならない悲しいことがごまんとあるのだ。

世の中の全てをどうにかすることは出来ないが、せめて自分の事はしっかり理解して、世の中を、自分の人生を生きていくしかないのである。
一回の人生である。自分の事もよく分からないまま世の中に流されるように生きるよりは、自分の事を知って、自分の足で、自分の人生を歩みたいもんだ。


ちなみに今も自己啓発本は買っていない。自己啓発本の価値は分かったものの、自分の買いたい本って、そこじゃないんだよなあ。音楽と一緒で「読んで、聴いてて楽しいもの」にお金を使いたい。職場で必要です、と言われない限りは買わないな。「教材」として買う分には抵抗はない。

私にとって本はあくまで、娯楽で趣味な、エンジョイな部分が強い。多分ここは、死ぬまで変わらんだろうなあ。




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