激突

 その日は少しだけ早く家を出ることができた。とは言っても、日頃は常に始業ギリギリにヒヤヒヤしながら出勤している。少しくらい早く出発したとしても、そんなに余裕があるワケではない。

 通勤は片道40kmのドライブだ。軽自動車を少しだけ無理させてスピードを出し、国道から山を突っ切る道路に右折した。川沿いの道を進むと、道路工事中で片側交互通行になっている。簡易の信号機が建設会社によって設置され、赤いシグナルが点灯していた。

 意識的に軽く息を吹きながら、信号の手前で停車する。赤いシグナルの下には、赤いデジタル表示の数字でカウンタが点滅しながらカウントダウンしていく。頭の中で「10…9…8…7…」と唱えながら数字を見つめている。

 いつもの通勤時は気持ちが焦っていて、シグナルが青に変わる前に発進してしまう。信号機を通り過ぎてから、ルームミラー越しに信号機の裏側を見て、そこに開けられた確認用の小窓から青い光が漏れているのを目視して、「コレは建設会社が工事のために設置した信号機だ。従わなくても道交法違反にはならない…」と自分自身に言い訳するのが日課になっていた。

 以前、4歳の息子を助手席に乗せて、同じように見切り発進したコトがある。その時は息子からクドクドとお説教を喰らった。次に同じような工事現場の信号機で停車した時には、息子が「行ってヨシ」と言うまで発進してはならない、と命令されたものだった。

 「3…2…1…」

 今日は心に多少のゆとりがある。青に変わったコトを確認して、ゆっくりとブレーキペダルから右足を上げ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。信号機の先は少し進むと山の斜面に沿って大きく右にカーブしていて、反対側の信号機は見えない。曲がりくねった道路を真っ直ぐに敷き直す大掛かりな工事だ。対向車線はザックリ剥ぎ取られていて、離合できない完全なる片側交互通行の道路を進み、右カーブへと差し掛かった時、カーブの先からヌルッと対向車が滑り出してきた。

 状況を把握するより先に、感情が頭からスーッと引いてきて、目の高さを通り過ぎ、肩の高さ、みぞおち、丹田へと降りていくのを感じた。

 そして腹が括られる感覚を追いかけるように状況を把握していく。信号無視した対向車が、やや慌てて突っ込んで来た。赤い小さなハッチバック。危険だがギリギリ衝突するようなタイミングではない。運転手は男性だ。助手席に人の姿は見えない…

 …オレは絶対に引き下がらない。

 カーブの手前で対峙する。こんな田舎の山道だ。お互い後ろに車はついてきていない。タイマンで睨み合いだ。

 …オレは絶対に引き下がらない…。

 オレには既に感情はない。無表情、目は半分開いているのか、閉じているのか、という状態だが、アゴを引いているので、上目遣い気味に視線が対向車のドライバーに注がれる。睨んでいると言うよりは、目が据わっている感覚だ。

 相手はオレと同じぐらいの年齢か、少し年上ぐらいだろう。左手はハンドルを握りしめ、右の肘を身体の後ろに回し、少し前傾姿勢で、歯を喰いしばってこちらを睨めつけている。オレとは反対に、時折アゴを上げて、眉毛を絞って眉間にシワを寄せ、下目使いに睨みつけているようだ。

 …オレは絶対に引き下がらない。

 相手が信号無視して進入してきているのは明白だ。正義はオレにある。ココで引き下がるコトは、世の中の理に反する。オレはたとえ、逆上した相手にフルボッコにされようとも、シフトレバーをリバースに入れてはならないのだ。ココで引き下がるコトは、息子を裏切るコトに等しい。

 視線は決して相手の眼から離してはならない。先に目を逸らした方が負けだ。とは言うものの、オレは視線はそのままで視界にルームミラーを捉えていて、そこに信号機が映っている。信号機本体裏側の確認用小窓からは赤い光が漏れていて、たった今1台のバンが停車したコトに気づいている。
 対向車線の信号機も青に変わっている頃だろう。今に対向車線から車が押し寄せて来るかもしれない。

 対向車のドライバーは、明らかにイライラしている。鬼の形相でこちらを睨みながらハンドルを左手の指でコツコツ叩き、数メートル離れていても肩で息をしている様子がわかる。

 …オレは絶対に引き下がらない。オレはブチ切れているんだ。

 オレの車の方が信号機に近い。だからオレが下がった方が、事態は早い時間でカタがつく。だが、そうはいくか。既に当事者以外を巻き込んでいる。なぜならオレの背後の信号機は再び青に変わっているのだ。それでもバンは前進してこない。下手に進入して、毛を逆立てたオスネコ同士の睨み合いのように緊張したこの局面にプレッシャーをかけたくないのか。それともシンプルに、当然オレが下がるべき局面だと判断しているのか…。
 そして対向車線の信号が青だった間に、車はやってこなかったというコトだ。オレには都合が良い。

 こうなったら行き着くトコまで行ってやるよ。後ろのバンからオレに対してプレッシャーがかかっても、2対1になっても、絶対に引き下がらない。

 対向車のドライバーの口許が「クソッ」と言ったように見えたと思うやいなや、対向車のホーンがけたたましく鳴った。と、続いて運転席と助手席の隙間から影が動いたのが見え、黒髪の女性が運転席を覗き込んだ。嫁か?切羽詰まった表情で、ドライバーに何かを訴えている。よく見えないが、恐らく子供を抱いている。1歳か、2歳か…。よく見えないが、子供は恐らく泣いている。なにしろよく見えないのだが。

 …オレは絶対に引き下がらない。オレはブチ切れているんだ。

 対向車のドライバーは嫁に何かを言いながら、オレの方を指差したり、喚いたりしている。「あの○○…」と言っているようだ、○○に当てはまる言葉が唇の動きからは読み取れないが、讃えられていないコトは明白だ。オレと嫁の板挟みでご苦労なコトだ。

 対向車のドライバーの嫁まで泣き出したようだ。抱き抱えた子供の顔を自分の頰に押し当てるようにして固まっている。心なしか子供はグッタリしているように見える。

 子供は病気か?急病で病院に連れていく途中で止むを得ず工事信号を無視して突っ込んできた…?

 「ヘェ…可哀想に…」

 …な〜んてコトになるかよ!仮にそうだったとしたらますます許せない。仮に子供が病気じゃなかったとしても、家族を乗せて運転していて、信号無視をするコトがあり得ない。オレの見切り発進とはワケが違うだろう。数秒の見切り発進をする時、対向車線の信号機は絶対に赤だ。対向車はまず来ない。

 コイツは違う。対向車線の信号機が青になっている可能性のあるタイミングで、無謀に突っ込んできているのだ。オレがいつものように焦っていたら…?数秒の見切り発進をやらかしていたら…?今この対向車が停まっている辺りで正面衝突していたに違いない。先が見えないカーブの向こう側から、出会い頭にぶつかっていたに違いないのだ。

  …オレは絶対に引き下がらない。オレはブチ切れているんだ。

 オレは気づいたのだ。この対向車のドライバー一家が今、全員生きていて、元気に夫婦で揉めていられるのは、少しだけ早く家を出たオレのおかげだ。日頃せっかちなオレの、珍しくゆとりを持とうとした気持ちのおかげだ。オレに感謝し、自らの無謀を悔やんで引き下がれよ…!

 とうとう待っていたバンが前進し、オレの車の後ろにつけた。こちらの信号が赤に変わる前に、勝負に出たのだ。プレッシャーは対向車線のドライバーにかかった。これだけ車通りの少ない道路なんだ、2台に詰め寄られては勝負あっただろう。嫁さんにも子供にも泣かれて、カタァないな。薄っぺらい根性で、家族にまでリスクを抱え込ませたら、結果こうなるんだ。さぁ、観念して事態の収拾に入ろう。

  …オレは意地でも引き下がらない。もはや正しい正しくないはどうでも良い。

 対向車のドライバーは一瞬、観念したように視線を逸らし顔を歪めたが、すぐにまた険しい表情に戻り、最後の炎が飛び出してきそうな視線をこちらに向けると、ハンドルを握る手を右に替え、左腕を助手席の後ろに回した。
 オレもブレーキペダルからそっと右足を浮かせながら、クリープ現象で車が前進するかしないかのポジションを模索している。

 勝った、とかそんな感情ではない。やるせない気持ちが込み上げてくる。朝っぱらから何をやっているんだ、家族もいる良い歳のオッサンが。
 急に感情が蘇った感覚で、対向車のドライバーに対する怒りや同情が、カラフルに彩られて溢れ出してくる。(コイツも辛いんだ…)(イヤしかしコイツは悔い改めねばならない)(子供が大変な病気だったらどうする…)(イヤそれなら救急車を呼ぶ判断をしなかったコイツは無責任だ…)

 瞬間的に色々な感情が脳内を駆け巡ってオレの感性を刺激しまくっているトキに、唐突にある視覚情報が脳内に飛び込んできて、オレの思考はその許容量を超えて膨れ上がり、ものすごい速さで回転を始める…。

 対向車線をカーブの向こう側からやってきたスクールバスが、ヌルッと姿を現した…。

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