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不器用な先生の休憩室

『不器用な先生 ー小説倫理ー』の掲載が、先日100回を越しました。

当初は50回も書けば目的に到達すると思っていたのですが、100回を過ぎてようやく目的の形が観えだしてきたという状態です。

連載の目的は、人間の認識行為をやさしい言葉で解き明かしてみたいことにありました。
哲学では悟性による対象の超越的な取得や確保と言ったりします。だが一つの対象に、異なる人間が同じ認識を共有することが可能なのでしょうか。

たしかにある考え方に共感することもあるが、反発することもかなりあります。
それで認識の超越性を語られるものなのでしょうか。

結論から言うと、認識の超越性はだれでもが把握することが可能なものなのです。それには、抽象化という作業を強いられることになりますが、可能なのです。

それを徐々に明らかにしていくのを目的に、この連載を開始しました。

物語の登場人物は、大半がそんなことを意識していません。でもいろんな対話を重ねていくことで心を一つにできることに気づき始めます。
少数の意見をだいじにして、それに気づいていきますから一直線には進みません。
ランダムウォークのようなものです。ランダムウォークであっても目的地には接近していくのです。


物語は2017年に記録した資料に基づいて書いています。
日付と曜日がおかしいと思った方もいるかもしれませんが、2017年であることがわかれば納得いただけるものと思います。
ただし記録が物語に影響した部分は10%もないと思います。

残りは全くの創造で、架空の物語です。

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