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しんすけの読書日記『新生』

十代のころ読むのを途中で断念した書。
『神曲』のように昇華されないダンテの語りがあまりにも悲痛だったからに違いない。
十代にとって哀しい恋なんて不要なものだったのだ。

実際は所々に見えるダンテの理屈ぽい詩論に辟易していたのだが、今ではそれがダンテ片恋の気恥ずかしさの隠蓑すらに観える。

実人生は、哀しい恋に満ち溢れている。
大半が結ばれず、結ばれても種々の別離を味わう。

だからこの今も、こんな哀しい恋があって良いのか。と読むのが辛すぎる。
しかし今回は途中で断念することができなかった。

ダンテ・アリギエーリは夭折した恋する人を魂の限りを尽くして詠う。
恋する人ベアトリーチェは、ダンテの気持も知らずに死んでしまったのだ。

ダンテは九歳のとき、同じ九歳のベアトリーチェに出会った。
そしてダンテはベアトリーチェに恋してしまった。
なんと幼い片思いか。

さらに九年後、ダンテはベアトリーチェに出会う。
ベアトリーチェの眼はダンテを見つめていた。
それだけに過ぎない。

だがダンテは燃え上がった。

そしてベアトリーチェは死んでもダンテの中で生き続けた。
それをダンテは詠った。

新生には三十一篇の詩が所収されている。
どれもが切ない。ダンテが肩肘を故意にはっているような詩も。

前半が、ベアトリーチェが生きていたころのダンテの片思いを詠ったもの。
後半は死せるベアトリーチェの魂を、昇華させるかに詠ったもの。

生けるベアトリーチェへの、片思いを詠った前半は、ダンテの青春を思い起こさせ甘いかおりすらかもしている。そんな錯覚に捕らわれてしまう。

 なんと優しくなんと素直なのだろう、
 あの人が人々に会釈する姿は!
 もう目をあげて直視するのも面はゆい、
 舌ももつれて声が出なくなってしまうのだ。

 あの人は歩く、人々の褒め言葉を聞きながら、
 慈悲深くつつしみを身にまとい、
 さながら天上から地上へ
 奇蹟を示しに来た人のようだ。

 あの人がにっこりと挨拶を返すと、
 優しさが目から心へしみいるような気がする、
 それは感じた人でなければわからない優しさだ。

 そしてあの人の口からは愛にみちた
 さわやかな霊が外へ出てぼくらの魂へ
 呼びかけにくる、「そっとお嘆き」 

平川祐弘訳 河出文庫版 p142-143

先に掲げた画はこのうたの場面を描いたものに違いない。
これはヘンリー・ ホリデイによるもので、ダンテとベアトリーチェの視線が合う美しい場面だ。
ベアトリーチェの愛らしさと、ダンテの切なさが観えて、哀しくも美しい。
平川祐弘は、『新生』には、ベアトリーチェ生前に詠ったものもあるのでないかと言っている。この詩の瑞々しさ、それを裏付けるような気がする。

だが、この画。『新生』の叙述とはかなり異なる。

 純白の衣服をまとい、二人の、やや年上の婦人の間にはさまれて、わたしの前を過ぎ行く。そして道を進みながら、わたしのいる方へ眼を向けた。わたしはひどくどぎま ぎしたが、女性はあの得もいわれぬ優雅な物腰でいかにも上品にわたしに会釈した。

平川祐弘訳 河出文庫版 p15

女性二人のなかにベアトリーチェを置いては、視線を合わす画は描きにくい。
そして純白の服では、ベアトリーチェの愛らしさが描きにくかったのだろうと思う。
でもどうせやるなら、こんなふうにした方が良かったのでは。

これは、ぼくの遊び心に過ぎません。
大変、申し訳ありません。

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