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しんすけの読書日記 『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』

ぼくは無宗教者であり、無神論者である。だがヴェイユがいう神という言葉に惹かれる。なぜだろう。

読書メーターで読友がシモーヌ・ヴェイユに触れていた。懐かしく思い読んでみることにした。『重力と恩寵』の感動が再び蘇る。
工学畑のぼくが哲学を好むようになったのは、シモーヌ・ヴェイユに惹かれることが大きかったからに違いない。

重力に逆らうことはできない。それならば重力に服従する生き方を発見するしかない。
しかしヴェイユは流されていくような生き方を選ばない。

だからだろう。シモーヌ・ヴェイユを初めて読んだとき、こんな苦難の途ばかりを選んでるんだろうって、不器用にすら思えたものだ。

ヴェイユの理想は共産主義。神が与え給う共産主義。それが実現できない理想であることもヴェイユは分っていた。
人間の多くが理想とは関係ない醜い生き物だと分っていたからだ。社会主義を標榜しながらナチス以上の残虐を露呈したソヴィエトが、その証だった。

それでもヴェイユは平等社会の実現を目指し生き抜くことを選んだ。それは観る者には、あまりにも息苦しい。でも人間はそれぞれに、どうしても変えられない生き方がある。
愚図だ、融通がない、青臭いなんて、言われようとも。

だからヴェイユの生前は、誰もヴェイユの存在に気づいてなかった。
でも、ティポンって男がヴェイユが残したものを纏め『重力と恩寵』として発表したとき、ベストセラーになってしまった。

当然だった。多くの人が言いたくても言えなかった言葉が並べられていたからだ。『パンセ』を読むような気持で、みんな読んだと思う。

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー

しばらくヴェイユが書き残したものを眺めながら、ヴェイユの生き方を観ていくことにする。

 大衆は、自らの欲望すべてをすでに自分が所有しているものに向けることを余儀なくされているのだから、美は大衆のためにあり、大衆は美のためにある。他の社会的条件にある人にとって詩は賛沢である。大衆は、パンのように詩を必要としている。言葉のなかに閉じ込められた詩ではない。そうしたものは、それ自体、大衆の何の役にも立たない。大衆が必要としているのは、その人の日常生活の実体それ自体が詩であるということだ。

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫 p210

人間から考えるという行為を取り去ることはできない、そして良いことばかりを考えている訳でもない。悲しかったことや、失敗したことを考えている方が多いのかもしれない。だが「美しいものがそこにあるというそのことを望むのである」とする希望は絶えることはない。だから考えることに忍び込んでくる苦痛にさえ耐えることができるのだ。

シモーヌ・ヴェイユ

比例中項を自然に一性に結び合わせる媒介がいっさいない数は、わたしたちの悲惨さのイメージである。そして、数の領野と関連して超越的な仕方で、外側から媒介をもたらしにやってくる円は、わたしたちの悲惨さに対する唯一の救いのイメージである。これらの真理や他の多くの真理は、往復運動を決定してゆく滑車の素朴な光景のうちに書き込まれている。これらは、初等幾何学の知識が少しあれば、読み取ることができる。往復運動に照応する労働のリズム自体は、このことを身体に感じさせる。人の一生は、このことを観照するにはあまりに短かすぎる。

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫 p219

何らかの媒介無くしては数は悲惨さのイメージから逃れられない。媒介を齎す円のより数が悲惨さを免れるように、円によって悲惨さに対する唯一の救いのイメージが救われるのであろう。

これは逃れられない制約なのかもしれない。重力と同様に。

神は愛のあらゆる形態を創造した。だが神は愛そのものと愛する手段以外のものを創造しなかった。
神は可能なかぎりあらゆる距離において愛することができる存在を創造したのだ。
それを知るから理性が成り立ち知性として生きるのではないか。

 不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫 p244
シモーヌ・ヴェイユ

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