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頭手足を全てつかう。労働をする。対価を得る。

これは少し大きなコンセプト。

太古の狩猟生活的な働き方をすべきと、ある瞬間ふと思ったんですよね。

「営業は狩りだ」みたいな話ではなく、食べ物を獲得できればお腹は満たされるし、食べ物が獲れなければお腹は減る。

狩りに成功すれば食べられる。失敗すると食べ物にありつけない。

一種、ゲームのような労働をする。その上で時間の提供ではなく、成果物の交換。

自分の頭手足を全てつかう。労働をする。対価を得る。

そんな働く原点のようなあり方。

レバレッジをかけるでも、マネジメントするでもなく、自分のキャパシティを拡張させず、外部化はできる限り自分の未来へ、内部で生産も価値も発生させる。そんな人としての原理原則を感じられる理想を追いかけてみたい。

人体構造が狩猟時代に最適化されている。そこに生き方も寄せてみたいというそんなメタファーと衝動。

これが健全であり、健康であり、自然な流れだとふと思ったんですよね。

将来的な不安に閉じると、それは相対的なもので、かつ「恥」に起因するものがそのほとんどで、生命リスクとして考えると実はそんなにクリティカルじゃない。

自分の意志によるコントロールができていて、それは心も体も頭も健康であることで、その状態が維持できていることが最優先。時間の使い方として納得できる。

他人の時間を生きる。他人の意志を生きる。

これも悪くはないが、永遠と続けるものでもないし、それが大人でもない。

太古の農業のはじまりであれ、雇用であれ、サブスクリプションであれ、安心標準平等のための仕組みが、余剰を生み、格差を生み、搾取を生み、別の不安を生み出す。

あまり好きではない生産性や価値という言葉。これも他者ではなく、自分に矛先を向けることで、少し綺麗な装いができるし、素敵に言葉を感情を扱える。

人への強要でも、自分への強要でもなく、流れるままに。成長を楽しめる。そんな青春が来たら、年齢に関わらず沿うべきなんだろうなと思ったんですね。

言葉は状況の生き物。あやふやなものをどこに向けるか。理想に向かう現実。

虚構であろうと。理想であろうと。そう思う自分は現実でした。

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