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弱老と軽老という現象について考察してみる。

程度の差はあれ「老い」というのは、大人になるにつれ、感じることが多くなってく感覚で、それは20代の人でも、30代の人でも、私のような40代の人間でも、老属性は違えど感じる大人としての嗜み。

私自身が41歳なので、それ以上の年齢になったことがない。なので自分より上の人の感覚を語るのはおこがましく、正直わからない。

ただ目上の方々の楽しそうに過ごしている人を見ていると、いくつかの共通項があるようにも感じたりしてます。

そこは想定しつつ、今回は置いておきつつ、「弱老」「軽老」というキーワードを設置。こねくり回してみたいと思います。

こんな言葉があるのかないのかもわかりませんが、言語化するまでもない、口にするまでもない、伝えるまでもない曖昧な老いみたいなもの。

この存在は確実に感じていて、それが何者なのかということを書きながら考えていきたいと思います。

弱い強度の老い。軽い程度の老い。これをここでは弱老、軽老と呼んでいきます。

一つ一つ考えると、まったくもって人に話すまでもないけどな。

というものでも、かき集めてきて、その積み重ねを言語化して、自分で理解すると、または他者に理解してもらうと、自分の軸が強化され、共感が得られ、人間関係のグリップがもっと強くなる。もっというと、その延長線上で人生ってとても全然違うものになるんじゃないのかな。

という内容をツラツラと書きながら、考えていきたいと思います。

本気出せば、全然若い頃と同じ感じでいける。でも疲れが前より残る感じするんだよな。でもその疲れも気持ちの問題と言えば気持ちの問題な気もする。

とか

別に不眠ではないんだけど、眠れる時間が少しずつ短くなってきたよな。でも日によってはめっちゃ眠れるからな。仕事の状況とか、季節、環境の問題かもな。これも気持ちの問題と言えば、気持ちの問題な気もする。

とか

めちゃくちゃやる気に満ち溢れているわけでもないんだけど、別に萎れてる気も、日和ってる気もないんだけど、その比率が10代の頃を10とすると、7か6くらいな事が多くなった気がする。これも気持ちの問題と言えば、気持ちの問題な気もする。

まあ、軽老とか弱老(以降は便宜上「軽老」に用語統一)というのは、気合入れれば全く問題ないんだけど、そういう問題でもないような、ただ気持ちの問題な気がするし、そうでもない気もするしという一種のメンヘラ的な曖昧性な老いという曖昧な定義としておきましょう。

快適なゾーンが狭くなってきたなというか、具体的には、快適と不快のバランスが難しくなってきた話として軽老を捉えると、なんとなくしっくりくる気がしてきました。

多少の不快さ、疲れ、落ち、みたいな感覚をアピールしすぎる人で有能な人をあまり見たことがないという現実があったり、弱さが色気や強みにつながるのは若い時期だけという現実があったり、弱みを出すとナメられそうという思い込みも散乱していたり、

何はともあれ、おじさん、おばさんになるにつれて、比例して、弱みというとのは出しづらくなるという現実があるよなと感じます。

病気になったり、老いによって何かが大きく何崩れる。もしくはせめて未病みたいな、よくわからんが不調みたいのレベルまでいかないと、なかなか人に、自分の老いを言語化してまで伝える気になりません。

年とると体力なくなるのよ。

って最高にダサい感じしますし、若い世代も自分と同じ基準で見てきますので、体力気力基準のベンチマークを10代20代あたりに置きがちにもなって、軽老の言語化はますます遠のいていきます。

ダサかろうがなんだろうが、

年とると体力なくなるのよ。

と達観してあきらめるか、若い世代をベンチマークにしてガチンコで張り合うか、この両極の2択。この0か100じゃないところの合意点をつくる。

今の自分は、完全に前者属性な気がしますが、人生100年時代と考えた時に、60歳や70歳になってそれも違うなと。ただ達観してあきらめるも全然違うなと。

そう考えると、ここに軽老の明文化、定義化、言語化して伝える意味があるように思えてきました。

軽老のような微細な出来事を、自分で棚卸しできる。人に話せる。そんな粒度で言葉にしておくと、自分の状態把握の精度が極めて上がるのと、現実を理解して咀嚼して自分に落とし込みができる。

仕様を理解することで、その上で何をどうするかが、現実的に考えられる。言葉で状態理解できている事と、自分に腹落ちしている事は、他者にもしっかりと伝えることができる。

いわゆる0が100ではない65とか58とか75の合意点を、他者理解も得られつつ、定量化できて、定性化できている状態でバランスできる。

視座を上げるとか、抽象度高く考えるとか、メタ認知とか、この辺の要素と自分の状態を混ぜ込んで、他者と自分に落とし込んでいく。

こういう事が大事だと思うんですね。

自分が良ければ他人の理解は関係ない。でもなく、空気に寄せる。でもなく、完全利他でもなく、自己中心でもなく、虚勢でもなく、

自然状態を外部環境にブレンドさせていく。

こういう活動が大事だと思うんですね。

軽老とはそういう入り口の感覚なんだろうなと思えてきました。

アンチエイジングみたいな考え方は、老いるという事の否定で、その時折の自然な自分を楽しめない。人生100年、その時々を楽しむと考えた時には、これまた違うなと。

年とるアドバンテージというのは、大小問わない老いの経験なんかもそうだし、人や物事や事象の成功例失敗、見てきた実在モデル数、多様性理解度というところだと思うんですが、

これは諸刃の刃で、経験をうまく運用できないと、こっちもわかるし、あっちもわかるとなるので、答えを出せない。いわゆる丸くなる状態になってしまう。

そう考えるとやはり0か100か50ではなく、78とか63とか34とか、色んな見解を含んだ上で、意見にポジションを持たせないといけない。勇気をもって意見を意思決定していかないといけない。

利害や保身を絡ませず、自分の立ち位置をホールドせず、かつ軽老状態をフローするという生きている感覚。

弱老と軽老はそういうことを思い出させてくれた。

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