この世界の片隅に_メッセージカード_広島市中区立町_ジェラート工房ポーラーベア

この世界の片隅にの時代 その1 2017年2月17日

昨年10月20日サロンシネマで「この世界の片隅に」を観ました。この日はクラウドファンディング特典の先行上映会で、監督の片渕須直さんとすずさん役ののんさんの舞台挨拶もありました。ステージを見つめる観客全員が熱心な原作読者で、しかも広島弁ネイティブな地元の人で占められていることに、関西出身ののんさんはアウェイの洗礼と言うか、とにかく圧を感じたようで二度おののいていましたが、その仕草はすずさんの人柄を連想させました。のんさんの広島弁はお上手でしたよ。いやほんとマジで。

年がかわり4か月が経とうとしています。全国63館で11月12日に公開がスタートした「この世界の片隅に」は上映館が累計で300を突破したそうです。観客も増える一方。その間ずっと片渕さんの twitter は、映画をご覧になったみなさんの感想やプロモーション行脚の様子、獲得した映画賞など関連ニュースでいっぱいです。そしてそれをファンがリツイートするもんだから、タイムラインは埋めつくされることもしばしば。ツイートが加速度を持って拡散されていく様に、評判が評判を呼ぶとは、あぁこう言うことかと納得したものです。

これからは「In This Corner Of the World」や「En este rincón del mundo」のタイトルがついて海外での上映が始まるとか。メキシコ、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ…etc。国も人種も超えて胸に響くはずよねって、作品の普遍性を信じる一方で、生涯訪れることはなさそうな彼の地にまで、(1)まさか呉が舞台の映画が行くとは! (2)あの呉がワールドワイドなことになるとは!(3)あの呉がねぇ…と、うれしいんだけどなんだかピンと来ないような、すわりが悪いようなそんな気持ちです。

さて、その呉こそがぼくのふるさとなわけでして、昭和50年に生まれ、当時ベッドタウンとして造成が進んでいた焼山の団地で育ち、そして呉三津田高校を卒業するまで過ごしました。両親も呉で宮原と広。さらにさかのぼれば、旧安芸郡の音戸や倉橋に蒲刈。明治以来の呉市の宅地開発の歴史に呼応するように、世代がかわれば新たに居を求め、そこで家族を育んできました。そんな地縁の親しみから入った「この世界の片隅に」ですから、わが家の血脈を重ねることを抜きにして観ることはできませんでした。戦後レジームからの脱却を善しとする現在を、昭和は遠くになりにけりとばかり、ただただうすぼんやり生きている身であろうとも、戦争の時代と無縁ではないのだよと、中年・初老の身の心のひだに、ぐいぐいと触れて来るのでした。

もちろん一般教養として、そして広島県で生まれ育った日本人として、戦争が残した翳りに自覚が無かったわけではありません。ただ、そういうこととは位相が少し違うのかなと思っています。いずれはぼくも納められる累代の墓苑の道すがら、ずらりと並んだ数十基の墓石には、どちらを見ても「昭和二十年八月六日」の命日が刻まれていたので意識せざるを得なかった「原爆」と、課外授業の一環として平和記念資料館で学んだ「原爆」の違いです。ニュアンスおわかりいただけるでしょうか。

映画で昭和20年前後の呉を観ながら、ぼくは、ぼくが知っている平成の御世に至る前後10年の呉とを行ったり来たりしていました。

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盆灯籠を持ってお墓参り 呉市音戸町高須 2019年8月13日06時54分ごろ

呉駅 呉市宝町 スマホアプリ 舞台めぐり この世界の片隅に スクリーンショット-min

呉駅(スマホアプリ 舞台めぐり この世界の片隅に)2016年8月27日15時09分ごろ

昭和19年2月すずさんのお嫁入りで浦野一家は呉へ。呉駅到着の直後に高烏砲台から砲煙があがります(CUT-178)。昭和59年3月ぼくらは三津峰山遊歩道を探検していました。そのゴールは高烏公園、つまりかつての高烏砲台です。砲座は芝に埋まっていますが堡塁は健在。往時の要塞の体を未だ残し、ミリタリー感ありありなんですが、同時にそこは満開の桜越しに音戸の瀬戸を見おろせる名所でもあります。連れだつは坪内小学校の岩上崇くん。ファミコンとSG-1000の両方を持っていた子で、海上自衛隊の宮原官舎に住んでいました。官舎の裏から登って遊歩道に合流し、小学3年生の足にはかなりの距離だったのに、桜の開花にはまだ早く残念でした。数日後お父さんの転勤で横須賀へと引っ越す岩上くんに、那須正幹さんの「あやうしズッコケ探険隊」をプレゼントしました。

宮原官舎から昭和町方向 呉市宮原13丁目-min

宮原官舎から昭和町方向 呉市宮原13丁目 2016年5月20日14時45分ごろ

海上自衛隊 呉集会所 下士官集会所周辺 呉市幸町 眼鏡橋バス停 スマホアプリ 舞台めぐり スクリーンショット-min

昭和19年9月おしろいのすずさんが、周作さんと待ち合わせた呉下士卒集会所(CUT-648)。平成3年9月海上自衛隊呉集会所で待ち合わせたのは、宮原高校の田口くん。WINKの「ESPECIALLY FOR YOU」を買って、2人でしみじみニヤニヤしていた昭和中学からの同級生でした。市民に解放されていた集会所のボーリング場で、2人だけの三津田・宮原対抗戦を挙行すべく再会したわけです。勝負の行方はまるっきり忘れてしまいましたが、ちょっとレトロなレーンで「医学部ゴー!」と叫びながら田口くんが16ポンドのボールを放っていたのは覚えています。偏差値高い子ってちょっと変わってますよね、ドクタータグチ。

海上自衛隊 呉集会所前 国道487号 呉市幸町 2016年10月6日-min

海上自衛隊 呉集会所 呉市幸町 眼鏡橋バス停(スマホアプリ 舞台めぐり この世界の片隅に)2016年8月27日16時45分ごろ

昭和16年 17年 呉海軍病院 呉市 海軍用地 呉市青山町-min

呉海軍病院 昭和16年1941年夏(大伯母のアルバムより)

大正12年生まれの大伯母は昭和18年まで呉海軍病院に勤める看護婦さんでした。昭和20年6月圓太郎さんの入院がわかった病院です(CUT-1026)。

昭和19年12月入湯上陸する水原哲さん(CUT-767)。昭和56年近所の後河内さんの仏壇には、若い水兵さんの遺影がありました。誰だったんだろう。後河内のおばさんに不躾にたずねることが、幼心にも憚られる雰囲気でした。キリンレモンでも、トビキリのラムネでも、とにかくジュースを1ケース呉糧配で注文したら景品にくれたコカ・コーラのヨーヨーを、両手に2つ構えて同時に操るおもしろいおばさんだったのですが。

鍋桟橋跡 待合所跡 係留チェーン 呉市警固屋4丁目-min

鍋桟橋跡・待合所跡 2013年7月17日13時09分ごろ こどものころ周辺は遊び場でした。巡洋艦青葉終焉之地の碑は400m南。

昭和20年3月19日灰ヶ峰防空砲台の高角砲が火を吹きます(CUT-881)。平成16年3月かずほさんのミニバンで灰ヶ峰をドライブデート。いちゃいちゃバカップルぶりを発揮していた展望台が、まさか砲座だったとは露知らずです。ぼくにとっての灰ヶ峰は、学校の遠足の目的地であり、その山頂は毎年4月28日に校内総出で高校の創立記念植樹をするところ。その式典の挨拶に立った生徒会長が、プリンセス・プリンセスのダイアモンドをアカペラで披露した、ラブ&ピースの現場だったのです。

昭和20年9月枕崎台風。土砂崩れに巻き込まれて音戸町奥内の曾祖母が亡くなりました。曽祖父と除隊した祖父は戦後しばらく呉湾の掃海をしていました。

国道185号 本通二丁目交差点 2010年8月13日

本通二丁目交差点から灰ヶ峰 2010年8月13日12時16分ごろ

「この世界の片隅に」は、原風景とシナプスに作用する映画。それがぼくの一番の感想です。舞台としての呉か、アイデンティティーを培われた呉か。その距離の取り方を承知しつつも、映画のシーンがまるで思い出の引き出しを開けるかのようでした。ぼくはすずさんの向こうに、たいせつな、忘れ得ぬ人たちを見ていた。そういうことなのです。

全国公開のカウントダウンに入ったころ、メッセージカードの束が「この世界の片隅に」製作委員会 から届きました。制作支援メンバーズ通信(#57)によると、この送付作業(3374通)には、宮村さんをはじめとする宣伝チーム、スタジオの鈴木さん三宅さん、山本さんで7時間かかったとか。「お友達への宣伝活動にご利用を」の旨の書面が同封されていましたが、す、すいません。お友達すくないんですぅ。ジェラート工房ポーラーベア(広島市中区立町)にお預けしましたので、どうぞご来店の際にお持ちくださいませ。380円でド迫力ボリューム。行列のできる人気店です。

#呉市


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