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自らへの喝

全ての瞬間を愛でることが、詩の真髄であるなら、私は、喜んで身を捧げましょう。私は、個体としてその生命の灯火がふっと、夏の夜風に消えるその時まで、十全に生きようと、そう思うばかりであります。
ある瞬間が、その瞬間でしかないことを、理解するとき、人は、真っ白な光の中に包み込まれます。
走馬灯という、言葉は言い得て妙かもしれません。しかしそれは、個体が生の危機に脅かされ、死を目前とするときにだけみるものではないと、私は感じているのです。それらはいつでも私たちを捉えています。それらは時に夢の中で体験されるでしょう。時には、芸術への奉仕がその光の元へあなたを誘うでしょう。
どんな時であれ、場所や状況に関係なく、常にそこにある、というのが真実でありましょう。
そして、それが、私の実感であります。
全ての瞬間に対する、愛が、私のなかから吹き出て、止まりません。
それは私に、噴水を思い出せます。巨木のような噴水が、虹を垂らしながら、透き通った水の飛沫を散らしています。太陽は燦々と輝き、木々が、花々が、種々が、大地に根を持つものたちが、各々、迷いなく、みずからの肥やしとなる土の恵みを取り込もうと全生命をかけています。
水辺には、動くものたちが集まってきます。照りつける日差しに乾く喉と肌を潤し、彼らはまた、食事へ、狩へと向かいます。

思いつくがままに、ピアノを弾くように、文字列を打ち込んで行こうと、そう決めております。何も、難しいことでは無いのです。私たちは、母の胎内にいる頃から、言葉という音の塊に触れ、身体が大きくなるにつれて、徐々に自らも喉を鳴らし口の形を整え、舌をうまく使って、その言葉を発し始めるのですから。年季が入っているもんです。知らず識らずのうちに。その言葉なるものを使って、こうして、何かをかたるのですから、どんなに習得を積んだ楽器よりも、むしろ、それは、楽なことでしょう。
どうであってもかまわないのです。

どのような言葉で語ろうと、それはなんでも構わない。大事なことは、それをかたることが楽しく、喜びあるかということで、いかなる記憶も、いかなる悲しみも、いかなる不思議も、分け隔てなく、あなたのなかに渦巻くひとつの生命の音楽に身をあずけて、思いついたそばから、書き取り、写し取っていくのです。それだけがあなたにとって、できる唯一のことでは無いでしょうか。ちょっとした言葉遣いの間違いや、文法のおかしさ、誤字脱字、文章のもつれなどは気にせず、どんどん語っていく。
なにかをかたらずにはいられない、それが人間いうものでしょう。
あなたは先日、友人にそういったではありませんか。
「人は歌うよ」
と、そうです。人は歌うのです。人は、どんな時も、どんな場所にいても歌をうたうのです。もちろんその歌というものは、節がないかもしれない、メロディもハーモニーもなにもない、ただのうわごとのような叫びかもしれませんが、そうであってもひとは歌うのです。うたとは一体なんでっしょう。誰にとっても、歌うに値することがあるのです、
それは生命の讃美であり、自らの出自の悟りであります。
歌うことは、どんなに苦しく悲しい記憶が蘇り、いたみに張り裂けそうになっても、あなたを不思議な力で包み込みます。歌は、すべてを包み込む、あなた自身にある愛の化身なのです。
そして、そうした、愛の化身がすなわち歌であり、どのような形であっても、物語とよばれようと絵と呼ばれようと、彫刻と呼ばれようと学問とよばれようと、なんでも、その愛の化身の働きによって、あなたにもたらされる力、はたらきは、すべて歌なのです。
うた!!!!それは、生命の躍動。生命の記憶。すべて、存在の根底に流れる、慈しみ。誰にも、損なうことのできぬ愛。
わたしは、その歌を歌いあげよう。音楽という形態を持たずとも、物語という形を取ろうと、なんであっても結局は同じことだ。わたしは、自らの母から、父から、承ったこの命をふるわせて、ひとつひとつの、かなしいまでに美しいこの世界の様相を、描き切ろうと思う。私は、十全に生きた。すでに多くのものを失い、得た。
この郊外のスターバックスに座って、カフェを齧りながら、今ここに居合わせた人たち、7人組のBBQ終わりの若い女性たち、パソコンを広げ、Webデザインに勤しむ右目のよこにほくろのある女性、秘書検定のガイドブックを広げてつつも集中できずスマホをみる女性。ハイキング帰りのおじさん。テスト勉強に勤しむ、青年。
太ったカップル、私、みな皆、死んでいく。
そして、この建物もいつかは廃墟となり、誰もにんげんも、いなくなり、森にのみ込まれ、そこらじゅうにネズミと狐とタヌキが住み着き、蛇やアブ、虫たちはぞろぞろと昔スターバックスのガラスの入れ物に我が物顔で住み着くのだろう。そして、もちろんそのころ、わたしもいない。
個体は消え去り、人間もほとんどいない。さらに、時間が過ぎに過ぎて、森もなくなり、いや、地球は太陽に飲み込まれ、すべての銀河がある一つの混沌へと帰っていく。
それは一瞬のことだ。
だれも見たこともない、けれど、予感として私の中に、はっきりと生じる。
こうして、みると、全ての人間たちの、試み、ただ、生きているということが、途端に儚い花の如く、美しく見えてくる。みなみな、死ぬのだ。微塵に帰り、そして地球もいつかは太陽に飲み込まれる。そうした、事実のような仮説は、しかし私に圧倒的な説得力を持って迫り来る。どこかで、人間もそのことを感じている。自らが今まさに緩やかに死んでいってること、この個体は、全く儚く簡単になくなることを。
しかし、同時に、全ては消えてなくなるが、同時に、全ては元のままなにも損なわれることなく存在し続けるのだという、ことも感じている。
矛盾だ。あっとうてきな矛盾。しかし、それが私たちだ。
わたしたちは、狂おしいほどの炎を抱えて、生きている、と同時に、冷たく暗い暗闇に飛び込んでいく。
飛んで火に入る夏の虫は、私だ!
それがいいった私以外の何であり得よう。

真夏の始まりにかえて。

7月22日 自らへ喝

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words through shinta

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