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エッセイ 「朝のスープ」

私は、この数日の旅を経て、家に戻ってきた。

先ほど3歳の娘が遊びに出かけ、伽藍堂とした家の中で、私はハーブティーを淹れて、ビスケットを摘んでいる。
外には、金木犀の香りが、うっすらと空気に溶け出し、太陽の光がわずかにその粒子に反射しているように世界がゴールドの気配に満ちていた。
トンボたちの羽に乱反射するこの輝きに何か特有のなつかしさを感じながら、私は、もう一つ、ビスケットに手を伸ばした。

旅は短く、原子時間で言えば、それは高々2日間のことだ。

つまり48時間以内に、家から出て、家に帰ってきたのだ。多くの人が体感し、実際に時間というものが、ただだらりと一方通行に絶対的な形で進んでいるわけではないということもわかっている。
私にとってそれは、48時間の中に広がる無限であり、幾つもの濃度が観測可能な、ひとかたまりの分解不可能な宇宙のひとかけらなのである。

そんなことを思いながら、昨日は、熱め温泉に入って、夜には娘と一緒にぐっすり眠ってしまった。

夢のない眠りが久しぶりに訪れた。

そして、今抱いている感覚について、まるっとその影を救いとれるような言葉の並びを記しておきたいと思った。

旅の最中に、さまざまに夢を見る。その夢たちが見せる景色というものが、今この瞬間に自分の内部で、脳の中で起きていることを、そのままに見ているような感覚を抱かせる時がある。

こんな夢があった。

いつもの食卓で、祖母と父と姉が座っていた。
意を決したように、父が「おばあちゃんから話がある」と私と姉に言った。
見ると、さっきまでフサフサな白髪であったはずの祖母の髪の毛が一切なくなっていることに気がついた。祖母が誰から話そうかと思い、「じゃあ、あなたから」と私に身を向けた。
「私は今日死にます」
と、この予定日に子が生まれるということを改めて報告するような雰囲気が漂っていた。
一瞬、そして一呼吸の中、永遠が見えるように世界が静止した。
父も姉も、画面越しに会に参加していた従兄弟たちも固唾を飲んだ。
「おめでとう」
私の口はそのように言葉を発した。
続けて、
「死もまた新たなる世界への門出。命の本体へと戻り、新たな点として放たれるその時まで」
と、初めから決まっていたような、あるいは小さい頃から唱えていた祈りの言葉を言うように、澱みなく私は台詞を読むように言っていた。
夢の中で、私は、祖母に、そして家族にそのように言えたことに喜びを感じていた。


この2日間の旅のいくつかのシーンは、悟りの意識を生きる方と対話し、友の家で晩餐が開かれ、また1000年後の未来を描く画家の友人が現出させたその世界を体験し、古くからの友人に数年ぶりに再会した。そんなところである。
だが、こうした語られる事象というものは、海に浮かぶブイのように、その下では、思わぬ魚が泳ぎ、海藻がゆれ、水の中に無数の生物が息づいている。
この2日間で起きていた何か広く深い巨大な川の流れの微細な動きに、脳みそが揺さぶられ、そして世界が新たに一新され、破壊される、一瞬一瞬の世界の瞬きを感じていた。そして、呼応するように私の生命が揺らぐわずかな震えさえ、見逃さず、感じている身体の神経全体で生きることの意味を知った。

それは、ありえた幾つものシナリオが、一つに収束していく音が聞こえるような感覚であった。

私の前に現れた”彼ら”が、今ここに出現したとき、私は別の世界が新たに立ち現れたような驚きに似た、世界のカラクリがぴたりとハマるその瞬間を、たまたま舞台裏から見せてくれたような感覚を持った。

一体全体、本当に世界は観測され、それぞれがそれぞれに無限の宇宙を立ち上げ、一瞬一瞬に選び体験しているということが、まざまざと、見えたのだった。

私たちは、個体として生命から放たれたちぎれた個体にすぎないという幻想を生きることすらも選びとる自由があった。あるいは、悟りが、人と自然な状態であると感得し、愛と喜びを生きる自由も同じようにあった。
そしてそれら、それぞれの世界で体験され、宇宙はどこまでも無限に広がっていく。

旅は、終わっていなかった。
この地球上に現在住まう家があったとしてもそれは終生の家ではない。どれも旅の途中の宿であった。
生命のひとかけらとして放たれた個体としての私が、死せるときに帰る場所、全てであり空であり、無であり、夢である、量子場の無限の可能性として透明なスープ。
全ての隅々に、透明なスープは、等しく流れ込み、それは時間軸さえも容易に無きものとし、空間という壁もすり抜ける。光は影であり、同時にどちらでもあり、波は時に玉となり、奇跡は必然となる。

未来は、過去となり、今が全ての時を包み込む。

沸々の野菜スープに、クロワッサンを浸して、私は朝ごはんとした。そのスープは、私という全体に染み込み、今日という日の朝の世界に染み込んでいった。


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