実験の時代へ?宇野重規・若林恵『実験の民主主義』を読んで

宇野重規・若林恵『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書2023年)を読んだ。書名が示すように、実験精神あふれる本で、読んでいて楽しかった。何より、新しい制度・新しい政治の在り方を模索しようとする姿勢が、とても新しかった。新しい政治学の胎動を感じた!そこで、思いついたことをいくつかコメントして、私の現在、考えている官僚制改革・公務員制度改革のための方策を少しだけ紹介してみたい。

コメント


①公務員・官僚が市民の中に入っていって、ファシリテーターの役割を果たしてはどうかという提言について(p. 119)。本書でも論じられているように、「市民」という存在は実は個別利益を追求するヘーゲル的な側面がある(p.140)。とすれば、官僚と市民の接触とは、国家の政策が利益団体によって歪められるリスクがあるということではないだろうか?もしかすると、かつての中央官庁の官僚が偉そうで超然としていたことは、利益団体・圧力団体の影響力から逃れるという意味で、良い側面もあったのではないか?

②ロザンヴァロン『良き統治』における「行使の民主主義」論を参照しつつ、執行権(行政権)を監視・責任を追及し、情報やデータを公開させ、有権者が日々意見を言うこと、問題提起やソリューションの提案をする方向性が望ましいとされるようである(p. 131)。しかしやはり、実際に執行権(行政活動)を監視し、ソリューションを提案するインセンティブを有するのは、狭い個別利益を追求する利益団体・圧力団体になるのではないだろうか?その結果は、利益団体・圧力団体による支配となるのではないか?

実際、米国では公開性は高いが、利益・圧力団体の監視にさらされる立法過程は、必ずしも合理的とはいえないのではないか?公開が統治の質を上げると必ずしも言えないのでは?「法律はソーセージに似ている、どちらも作っているところを見ないほうがいい」という諺には、一抹の真理があるのではないか?

③様々な「ファンダム」「推し活」の団体が、新たな形態のアソシエーションとして、既存の政党という組織にとって代わる可能性を若林氏は展望しているようであるが、若林氏自身が危惧するように、それは結局のところ「動員組織」で「ポピュリズム」の温床になるのではないか(p. 242)。

④若林氏は、有権者はどんな政治家や政党に対しても賛成する点と反対する点があるので、一票を一人の政治家・政党に託すのは無理があり、イシューごとに投票するという可能性を思い浮かべたりすると言う(p. 234)。しかし、長年にわたる投票行動研究の成果は、有権者は重要な政策イシューについても(例えば年金制度)ほとんどその内容を知らないというものであった。であれば、政策イシューごとに投票するというやり方は、実は有権者にとって不利益をもたらすので無理があることになるだろう。

⑤若林氏の考えを受けた宇野先生は、個々人の持つ一票を分割して政党や政治家に投票する「分人民主主義」の制度も可能ではないかと応答している。この分人の制度は、私も実装可能かもしれないと思う。他方で、現行の一人一票制と比べて、性能がそれほど良いかどうかは不明確かな、とも思う。

⑥少し意外だったのが、宇野先生が「ふるさと納税」制度は、現状では問題があるものの、良い結果をもたらすポテンシャルがあるとされているところ(p. 193)。私はふるさと納税制度は、税制として問題があるだけでなく、各自治体内の格差を固定化し、また腐敗をもたらすのではないかと疑っている。もちろん、ふるさと納税制度については、もう少し様子を見てから、最終的な判断を下す必要があるとは思っている。

官僚制・公務員制度改革について


私は、官僚制・公務員制度を考える大きな論点は、①公開/秘密のバランスの設計と、②「記述的代表性(descriptive representativeness)」の上昇が政治アカウンタビリティの確保に資するかどうか、だと思っている。もし記述的代表性の上昇によってアカウンタビリティが確保できるならば、「公開」の程度は低く抑えても良いことになる。

例えば、現代日本の公立学校の教師は、教育委員会や文科省といった「上」に向けた、誰も読まない報告書作成に膨大な時間をとられて疲弊し、教材研究もできなくなって、教育の質が低下していると言われることがある。「業績監視」というものは、しばしば単なるペーパーワーク(グレーバーなら「ブルシット・ジョブ」と言うようなもの)を増やすだけで、実際の仕事の質の改善に繋がらない可能性がある。監視すればアカウンタビリティが確保されて質がよくなるというのは、幻想かもしれないのだ。

そして、外部監視なしに仕事のパフォーマンスを維持・向上させるためには、記述的代表性を上昇させるのが一案となる。教師の例で言えば、例えば苦学して教員資格を取得した者を教師に優先的に採用するならば、その教師は貧困家庭の生徒を教育しようとする強いインセンティブを持つのではないか?

同じ発想は、官僚制にも適用できる。例えば、官僚制改革の方向性として、出身地域についての記述的代表性を向上させてはどうか。つまり、人口比を勘案して、一定数の官僚を、出身地別(例えば、北海道・東北・中国・四国・九州出身者)に割り当てて採用するのどうか。

人は、自分の出身地に対して自然な愛着を持つものだろう。そして郷土愛から、人は出身の土地の様々な問題について知り、その問題を解決したいと思うものだろう。とすれば、その郷土愛を利用すれば、中央官庁の官僚の日本全国の人びとに対するアカウンタビリティを向上させられるのではないか?

私が思うに、我々は今、実験の時代に突入しつつある。様々な改革の可能性を模索していく必要がある。その意味で、宇野・若林による『実験の民主主義』は、思考を喚起する勇気ある試みだった。私も、そのような試みに続きたいと思う。





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