「推定無罪」「ハラスメント」概念の適用範囲について:対話篇(2)

(会議机を挟んで向かい合って二人が座っている)
(片方が、一枚のペーパーを差し出す)

「暫定的なものですが、昨今のフェミニズム運動の在り方を見ていて考えたことをたたき台的にまとめました。内容は、『推定無罪』と『ハラスメント』概念の適用範囲の在り方について、です。まずご一読いただき、その後ディスカッションしましょう」
「読ませてもらいましょう」

(もう片方がペーパーを受け取り、読み始める)
(ペーパーには以下のように書かれている)

1.概念適用の制限的使用と拡張的使用

 私は松本人志は全く好きではない。というか、積極的に嫌いだ。古き良き、(もちろん暴力的なところもあったが、それでも)「人情」の吉本新喜劇を毎週、土曜日にTVで見て育った身からすれば、松本人志の笑いは、全く暖かみというものがなく、嫌な気分になるものだった。何故、松本人志があれほど広く受け入れられたのかは、私にとっては謎だ。しかし、松本人志がお笑い業界の大物であることは確かである。
 セックスに関わる問題を穿鑿するのは、イエロー・ジャーナリズムの極致であり、趣味の良い振舞いではないものと思って生きてきた。では、他者の下半身の事情に対する我々の下卑た心性に寄生した、イエロー・ジャーナリズムの極致とも言える週刊誌に、松本の性的加害を告発するような内容が掲載された時、いったいどう対応すべきなのだろう?この問題が厄介なのは、どうしても、道徳的な非難を浴びせたくなるからである。

「推定無罪」概念の拡張的適用

 フェミニスト哲学者、アミア・スリニヴァサンは、その著書『セックスする権利』において、Me Too運動に関連して次のように言う。例えMe Too運動において「推定無罪の原則」が守られなかったとしても、推定無罪は司法の場で適用されるべき原則である以上、SNS上で批判することを、推定無罪の原則は妨げるものではない、と(スリニヴァサン2023: 13-14)。
 だが、真偽や悪質性が未だに定かではない訴えに依拠して、ツイッター上で道徳的に批判を加えることは、実質的には、法に準ずる制裁的効果を持ってしまう。ならば、法に準じるものとして、やはり「推定無罪の原則」を適用するのが適当ではないだろうか。
 では、推定無罪の原則に照らしても、加害の存在が疑い得ない事態となった場合にはどうすべきか。ツイッターでしばしば見られる、津波のように殺到して人を道徳的に批判する時、それは、大衆的私刑に極度に接近する。この時、批判者は、その罪人がどのような罪に値するかは考えていない。ここに大きな問題があることは明白である。それは、正義の行使にあってはならない「無責任」さを帯びている。
 再び、スリニヴァサンの著書を見てみよう。彼女は2018年、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』の編集長になったばかりのイアン・ブルマという人物が、性的暴行で告発された人物による「要領を得ない自己弁解」を掲載した事を、他のフェミニストと共にツイッター上で批判した。ブルマは編集長をクビになった。そして、その事を報じる『ニューヨーク・タイムス』は、スリニヴァサンのツイートのスクリーンショットを記事に使っていた。スリニヴァサンは、「気まずさを覚えた」(スリニヴァサン2023: xiv fn64)。スリニヴァサン自身、「Twitterで人びとの怒りを呼んだからというのは、仮にその怒りが正当なものであったとしても、編集者を首にする理由としてはふさわしくない」と(この述懐は、正直で率直なものだと思い、スリニヴァサンに好感を持った)。
 SNS上で、誰かを批判することのは、もちろん別によい。自由である。名誉棄損のようなところまで踏み込まない限り、批判の自由、つまり言論の自由は誰にでもあることは疑いない。
 しかし、批判するとき、批判対象がどのような罰を与えられるべきかについても、明白な意見を批判者は持つべきだ。つまり、罰の内容についても公言して批判するべきだろう。批判するだけして、その罰をどうするかに関して何らイメージさえを持っていないのでは、やはり無責任に過ぎる。それでは、吊し上げと変わらない。あまりにも前近代的である。
 言いたいことは、自分がその問題の「裁判官」になった場合にどうすべきかまで考えた上で、批判すべきだということである。自分で裁判官になれると思えるだけの知識がないのに、大人数で一斉に批判したり、裁判官になった時には実行不可能な罰を要求してはいけない。
 私は、古代アテナイにおける「民衆法廷」を高く評価している。法律の非専門家である一般大衆も、難しい裁判に際して正しい結論に到達できると考える。しかし正義に到達するその能力は、整備された制度の下で、人々が知性を働かせて考えるというコストを払った場合のみ発揮されるとも考える。

「ハラスメント」概念の抑制的適用

 推定無罪の原則については、私はSNS上でのやり取りにも適用されるべきだと述べた。他方で同時に、私は「ハラスメント」概念については抑制的に適用すべきだと考えている。
 例えば、セクシュアル・ハラスメントについて。社会学者の加藤秀一は、「セクハラを可能にする力は社会的な権力」とした上で、次のように定義的に述べている。

組織内における不均衡な権力関係を背景として、立場の強い者が弱い者に対して性的に不快な状況を強いることがセクハラの本質なのです。

(加藤2017: 153)

 そして、加藤は、実際、セクハラ概念は主に職場を念頭に置いて整備されてきたが、学校、軍隊、NPO団体など、およそ組織と呼びうる場所ではどこでも起きるとする(加藤2017: 154)。
 これらの組織内でセクハラが起きることは、私は否定しない。しかし加藤が、セクシュアル・ハラスメント概念の適用を組織内に限定して用いている点に注意して欲しい。つまりハラスメント概念を、明確な組織がある場面に限定して用いているのである。
 ここで、例えば大学のサークル活動などにおいてセクハラ概念を用いるべきか否かといった問題が持ち上がってくる。サークルの上級生や幹事が下級生に対して「セクハラ的」すなわち性的に露骨で、不快感を与える言動をしたとして、それは「ハラスメント」と認定されて、処罰されるべきか否か。あるいは、お料理教室の参加者間で、セクハラは起きるか否か。
 私は、そのような事例について、セクシュアル・ハラスメントという概念を適用しての処罰することには慎重であるべきだと考えている。ハラスメント概念が、実質的に法に準じる概念として、違反者を罰する効果を持つ言葉になった以上、その概念は、拡張されて用いられるべきではない。明確な序列関係が存在し、その組織への帰属が大きな意義を有する場合にのみ、ハラスメント概念を適用すべきだ。

2.対話篇:概念適用範囲の正当化根拠はあるか?


(ペーパーを読み終わり、顔をあげて)

「まあ、気に入らないですね」
「・・・でしょうね」

「まずこの議論は、非対称な形で、概念の適用範囲を定めようとしている。『推定無罪』という、本来は司法の場に適用される言葉は、司法以外の場に拡張的に用いてよいが、『ハラスメント』の概念については、それを抑制的に適用しようとしている。その根拠はなんですか?」

「確かに、矛盾して見えますね。上で見たような形で概念を適用すべきであるというのは、ツイッター上での時々の直観について、私の意見をまとめたものですが、確かにこれだけではおかしい。とはいえ、正当化のための理由を与えることもできると気づきました。そのための発想を一言で言えば、『権力抑制』です」
「例えば、『推定無罪』という概念に似た重要な法諺として、「疑わしきは罰せず」がありますね。純粋な犯罪抑止という観点からすれば、「疑わしきは罰する」という立場もありうる。しかし、我々の社会は「疑わしきは罰せず」を採用している。何故か」
「それは、『疑わしきは罰する』社会ーーー「推定有罪」の社会ーーーは、恐るべき抑圧社会に転化するからでしょう」

「『推定有罪』が恐ろしい結果をもたらすかもしれないというのは、直観的にそうかもしれないと思いますが、その具体的な論理はどのようなものを考えているのですか」

「『推定有罪』の推定の下では、まず第一に、警察といった捜査機関が暴走して、無実の人々を次々に検挙するようになるでしょうね。捜査機関は、どうしても「悪」を処罰しようとする方向へと動く。個々の警察官は、悪人を処罰したいという強い感情を抱くと言います。また、捜査機関の組織利益を守るためにも、次々と「悪」を発見し、処罰しようとするでしょう」
「それに、推定有罪となったら、何らかの形で嫌疑をかけるだけで、人を陥れることができるようになる。この世界には、様々な場所で、様々な形で、不満や恨みつらみが渦巻いているものでしょう。そうした恨みを持つ人々
が、推定有罪の原則を利用するのは間違いない」
「結局、正義は実質化するために何らかの権力の存在を前提としますが、権力はどうしても独善に陥り、暴走する。「推定無罪」の拡大的な適用と、「ハラスメント」の抑制的な適用という発想は、いずれも権力抑制の思想であると考えます」

「何というべきか・・・ずいぶんと暗い考え方ですね。確かにスリニヴァサンも、男性にレイプの濡れ衣を着せた女性のことから、『セックスする権利』を書きだしています(スリニヴァサン2023: 2)。日本でも草津市議が、市長にレイプされたと虚偽を訴えていたことは記憶に新しいですし(「町長から性被害との訴え「一部虚偽だった」 元草津町議の代理人説明」『朝日新聞』2023年11月15日)、イギリスでも同様の虚偽のレイプの訴えをした女性はいる(「虚偽の強姦被害を訴えた女性に禁錮8年半 英裁判所」『BBC NEWS JAPAN』2023年3月16日)。そういう虚偽の訴えをする女性は、理解が難しいですが、確かに存在するようです」

「しかし、レイプの濡れ衣を着せられる男性より、実際にレイプされる女性の方がはるかに多いのは、スリニヴァサンも言う通りです(スリニヴァサン2023: 3)。であれば、概念の適用範囲を、女性の「権力」を抑制するために決めるというその発想は、現状維持の方向に強いバイアスがかかった、保守的なものになる。そもそも、加害を受けた女性たちの正当なクレイムに対して、『権力』という言葉を使うことは正当かを聞きたいですね。Me Too運動を始めた女性たちが、権力者でしょうか?明らかに違う。あなたは単に女性たちの訴えに怯えているように見える」

「保守的であるという批判は甘んじて受けいれます。そして、確かに女性たちは通常の意味では権力者ではないですね。認めます」

「あなたは、性加害の問題に司法モデルを適用しようとする。しかし、性加害は、司法モデルを適用するのが難しい領域です。何より、性加害を訴える女性は、二次加害に直面するという問題がある。このことは、今や広く知られているでしょう。レイプされたと訴える女性は、される側にも隙があったのだとかいう形で、被害者にも責任があったとされがちです。そして、実際にレイプされたのだと法的に立証する過程で、世間の、男たちの好奇の目にさらされる。被害が消費されてしまうわけです」

「この二次加害が、性加害を受けた女性たちが司法を利用することを妨げます。二次加害が生じるのは、女性側の責任ではない。もっぱら男性が社会的に優位な社会構造になっているから生じる問題ではないですか。二次加害が発生する限り、司法は、適切な解決策ではないと思いますね」

「・・・。あなたは石原吉郎という詩人を知っていますか?」
「知りませんが」
「石原吉郎はシベリアに抑留されていて、帰国後、詩人として活躍した人物です。彼がラーゲリ生活を振り返って綴ったエッセイに、「弱者の正義---強制収容所内の密告」というものがあります。私はこのエッセイを読んで衝撃を受けました。ちょっと紹介させてください。エッセイは、次のようにはじまります」

針一本で密告された経験が私にある。一九四九年、東シベリヤの強制収容所でのことである。針一本といったが、針一本が密告に値いするラーゲリの状況には、やはり説明が必要である

(石原2012: 109)

「石原は、過酷なラーゲリでの生活で、針を保有して針仕事ができることは、その生存可能性を高めると言います。針の保有は、もちろん禁じられていましたが、器用な日本人の囚人たちは、針を密造する術を見出しました。その密造された針は、ラーゲリ内での経済活動、つまり物々交換のための価値を持つに至ったといいます。針が、たばこや、時にはパンと交換できたというのです。しかし、針を通じて物々交換ができるようになったことに呼応するようにして、針の所有者に対する密告が始まってしまった。石原は、密告者について次のように書きます。長くなりますが、そのまま引用します。

 私が知ることのできた密告者のほとんどは、針にもたばこにもおよそ縁のない老人か病弱者であった。これは意外なことでもあり、また当然予想できたことでもあった。密告者自身にとって、およそなんの利益にもならぬ、反射的、衝動的ともみえるこの行為の動機は、おそらく複雑で、理解しがたいものであるが、ひと言で言えば<嫉妬>である。
 単なる嫉妬。だが「単なる」ということばは訂正を要する(・・・)
 ラーゲリの囚人には、生存の条件の悪化にともなう一種の安堵のようなものがある。これは奇妙なようだが事実である。「おれも苦しいが、あいつだっておんなじだ」という安堵である。ノルマによる主食の格差はどうにもならないこととしてあきらめたその分だけ、他の条件の平等への希求が増大するのである。生存の条件の向上は必然的に不平等をともなう。したがって囚人は、自分で気づかずに条件の希求することになる。こうした心理状態のもとでは、針やたばこの存在は、その恩恵外にある者にとっては許すべからざるものである。
 針一本にかかる生存の有利、不利にたいする囚人の直観はおそろしいまでに正確である。彼は自分の不利をかこつよりも、躊躇なく隣人の優位の告発をえらぶ。それが、自分の生きのびる条件をいささかも変えることがないにせよ、隣人があきらかに有利な条件を手にすることを、彼はゆるせないのである。人間は生存のためには、その最低の水準において<平等>でなければならず、完全に均されていなくてはならないというのが、彼のぎりぎりのモラルである。ここにおいて、嫉妬はついに、正義の感情に近いものに転化する。

(石原2012: 116-117)

「私は、石原のエッセイに強い印象を受けました。ここに書かれている感情の動き、つまり「嫉妬」が「正義」の感情へと転化していくメカニズムは、ラーゲリでなくとも見受けられるものではないでしょうか?」

「それは、強制収容所という極限状態のものでしょう。私たちが普通、生きている世界にそのまま当てはまるとは思えない。極論だと思う。それに、Me Too運動で批判されて職を追われた男性たちも、結局は元の職に戻っている。ラーゲリでの密告と、ツイッター上での批判を同一視することはできないはずです。そこには大きな飛躍がある。」

「もちろん、そうです。しかしでは、「推定有罪」であっても構わないと思いますか?もし推定有罪の推定の下での批判が実際に処罰に結び付くようになれば、恐らく、男性を失脚させるために性加害の濡れ衣を着せる人が大量に出てくると思いますよーーー例えば、昔、関係のあった男が社会的に成功しているのを見て、怒りや嫉妬から転化した正義感から、性加害があったと訴えるような人は、絶対にたくさん出てくるでしょう。推定有罪を推定して、SNS上での人民裁判のような形で人を処罰する時、そうしたケースは多発することになるでしょう」

「あなたの世界観は、暗い」
「政治学は暗いものです。悪を矯正するために、別の悪を呼び込むことがあってはならない。私の信条です」

「・・・私たちの議論は平行線をたどりますね。私の世界観は、それほど暗くはない」
「そうですね。しかし、批判する際、どれほどの処罰に値するかを明言するようにすべきだという私の提言はどう思いますか?」

「それは、確かに一つの見識だとは思いました。以前、ツイッターで呉座勇一氏が北村紗衣氏にミソジニー的な誹謗中傷をぶつけ、それに対する反発がやはりツイッター上で盛り上がった事件がありました」

「呉座氏は、北村氏を直接、誹謗中傷したわけではないですよ。呉座氏のツイッター・アカウントは、フォロワーはとても多かったとはいえ、鍵アカウントでした」

「その事実がどれほど重要かは私にはわかりませんが、確かに鍵アカウントでした」
「いずれにせよ、あの一件では、呉座氏が内定していた所属機関の准教授への昇格を取り消しになったという事実が明らかになった時点で、ツイッター上での空気感が大きく変わりました。それまでは呉座氏に対する批判一辺倒だったものが、内定取り消しが明らかになった時点で、呉座氏に同情的な雰囲気になった。そのことは、よく覚えています。その意味では、呉座氏の批判者は、呉座氏がどれほどの罰に値するかを考慮していなかったのは確かでしょう。正義の感情は、確かに不安定さを帯びている。認めましょう」

「ありがとうございます。合意できる点が見いだせて嬉しく思います」
「しかし、批判者が罰則の在り方を意識しておくというあなたの提言が受け入れられることはないと思いますが」
「受け入れられるかはあまり興味がありません。ただ言いたいから言っているだけです」
「閑暇に恵まれているようですね。時間がおありになる」
「暇人ですので。さて、私からすると有意義な意見交換ができました。そちらにとってもそうであればよいのですが」
「さあ、どうでしょうね。とはいえ、私も言いたいことを言うことはできました」
「それはよかった。では、また。何かあればお会いしましょう」
「そういう必要性が生じないことを願っていますが。では。ごきげんよう」
「さようなら」

(二人はそれぞれ別の方向へと去る)












参考文献

石原吉郎(2012)『望郷と海』みすず書房
加藤秀一(2017)『はじめてのジェンダー論』有斐閣
スリニヴァサン、アミア(2023)『セックスする権利』(山田文訳)勁草書房




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