真かつ美だが、善ではない:続・日本のとるべき安全保障政策について

はじめに:プランBの必要性


ドナルド・トランプ氏が共和党の予備選挙に勝利した。これで、バイデン氏とトランプ氏の間で、大統領選挙が戦われることが確定した。伝えられるところによれば、トランプ氏は世論調査でバイデンをわずかにリードしているという。二期目のトランプ政権の可能性は、現実のものとなった。

二期目のトランプ政権の政策がどのようなものになるか、予断は許さない。しかし、高い確率で、日本に対して更なる安全保障のコストの負担を求めてくると予想できる。また、たとえバイデン氏が大統領選挙に勝利することになったとしても、中長期的に見て、アメリカが孤立主義への傾斜を深めていくのは、ほぼ確実だと見られる。

ここに至って、戦後日本の基軸であった日米安全保障条約に全面的に依拠した安全保障政策を見直す必要が生じる。少なくとも、日本は日米同盟に依拠せず一国の安全を図るための「プランB」を持つ必要があるのは確実である。現実的なプランBを持つことで、今後、不安定性を高めてくると見込まれるアメリカの外交・安全保障政策に対して、日本独自の国益を主張できるようになるだろう。

周辺国あるいはヨーロッパとの同盟強化はプランB足り得ない


では、どのようなプランBが可能か。日本が直面する安全保障上の脅威とは、もちろん中国からのものである。中国の脅威に対して、日本政府はアメリカ、オーストラリア、インドと連携を深め(QUAD)、また中国の進出に脅かされているフィリピンとの関係強化を図ることで対処しようとしている。この日本政府の方針に対して、私は基本的に異論はない。

しかし、対中国抑止のためには、アメリカのコミットメントが決定的であることは論を俟たない。当のアメリカのコミットメントが不確実性を増していくと予想される中、QUADの枠組みに依拠するには、限界があるのも確かだろう。

そこで、一部には、日本とNATO(あるいはイギリス)との関係強化を図るべきだという議論もある。まず、NATOとの関係強化に対しては、恐らくフランスが強硬に反対するであろうから、現実的ではない。ではイギリスとの関係を強化すべきか。

しかし、安全保障分野で協力する相手は、慎重に選ぶ必要がある。ウクライナはアメリカの口約束を信じ、結局のところロシアに侵略された。相手側が危機に際して実際に支援してくれないのに、安易に他国との安全保障関係を深めるべきではない。それは、偽りの安心感をもたらすだけで、かえって仮想敵国との関係を悪化させるだけである。

従って私はもちろん、日本はNATO(あるいはイギリス)との関係を強化すべきではないと考える。

アメリカは中国との前線である沖縄に海兵隊を置くことで、日本有事の際に、アメリカが日本を支援する態勢にコミットしている。シェリング『軍備と影響力』で言われる「仕掛け線」論である(シェリング2018: 52-53; 101-102)。

すなわち、もし沖縄のアメリカ軍が敵国から攻撃されて壊滅した場合、アメリカ軍の犠牲が出た結果として、アメリカの世論が沸騰し、アメリカ軍は実際に日本を助けるために出兵するだろう。つまり、アメリカは沖縄に比較的、小規模の軍を置くことで、日米同盟にコミットしている。

アメリカが日米同盟にコミットしているが故に、敵国は、日本有事の際にアメリカが実際に日本を助けると信じる。その結果として、抑止力が生まれる(その裏返しとして、台湾有事の際に日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が生まれるのだが、これはどうしようもない)。

つまり、同盟による抑止のためには、何らかの形で同盟に「コミット」する必要がある。コミットなくしては、抑止力は生まれないのである。さて、日本とNATO(あるいはイギリス)は、相互に同盟にコミットするために必要なものはなんだろうか。

日米同盟と同じ、「仕掛け線」によるコミットメントを行うならば、一定の規模のイギリス軍が沖縄に恒常的に駐留する必要が出てくるだろう。もちろんそれでは片務的同盟なので、イギリスはそんなことをしないと考えられる。少なくとも自衛隊がイギリス(あるいはポーランド?)に駐留する必要がある。

さて、自衛隊の国外駐留といったことが可能であろうか。かなり難しいだろう。とすれば、イギリスも沖縄にイギリス軍を駐留させることはないだろう。結論は明確である。日本とイギリスの安全保障上の関係強化といっても、それは同盟関係にまで至る可能性はほとんどなく、対中国の抑止力とはならない。

換言すれば、アメリカのオースティンが提唱した「統合抑止」は、この記事を読む限り、抑止に必要なコミットの手段を提示していないので、機能し得ないということである。それは偽りの安心感をもたらすので、逆に危険である。

https://ipdefenseforum.com/ja/2022/12/%E7%B5%B1%E5%90%88%E6%8A%91%E6%AD%A2/

プランBとしての日本核武装


結局のところ、アメリカの外交・安全保障政策が不安定になれば、日本の安全保障は危険になるのである。であれば、不安定化するアメリカに対して、日本独自で安全保障を確実にするための明確なプランを持っておく必要がある。

そして、日本一国で安全保障を確実にするための政策は、日本の核武装でしか有り得ない、と筆者は考える。

日本の核武装については、1960年代にすでに議論がなされたことが知られている。当時の佐藤栄作首相は、核武装論者であったとされるが、知識人グループが出した結論は、日本に核武装は必要ないというものであった。確かに筆者も、冷戦というイデオロギー的対立が存在した当時であれば、アメリカの「核の傘」および日米安全保障条約は、十分な信憑性をもって敵国に対する抑止効果を持っていたのであるから、日本独自の核武装は必要なかったと考える。

とはいえ、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わった。トランプ氏は、2016年の大統領選挙キャンペーン中に、日本に対して核武装を容認する発言さえしているのである。日本としては、本格的に核武装を再考する時期に来ていると言えよう。

基本的な発想としては、フランスの戦略理論家ガロアの理論が参考になる。ガロアは、フランスのような「中級国家」であっても、「敵国の主要都市数十を破壊することができるだけのミサイルを持てば、敵国の核攻撃を抑制するに十分と考え、その程度の核兵器ならばフランスも持つことができると判断した」。「中級国家も核武装をおこなうことによって、超強国の核戦力を中和化し無意味なものたらしめることができる」(高坂2008: 153; 154)。

筆者は基本的にガロアの発想に同意する。しかし、日本の核武装は、中国の主要都市全てを破壊する必要はないだろう。恐らく、北京を絶対確実に破壊する能力を持つだけで、合理的な中国人たちを抑止するには十分だろう。

核武装にあたっての戦略素案


プランBとして日本の核武装が必要であるとして、その実現に向けた現実的な戦略および抑止戦略についての詳細がなければ、単なる画餅である。政治においては、ディティールの考察こそが必要となる。そこで、以下ではそのためのディティールの素案を提示してみたい。

日本の核武装にあたって、突破すべき関門は国内・国際的な反対であろう。唯一の被爆国として、核兵器に対する国民の拒否感は非常に強い。また、中国やロシアは当然として、日本に侵略された過去をもつアジア諸国そしてアメリカもまた、日本の核武装を強く警戒するだろう。経済制裁を受ける可能性もある。

そうした国内・国外の警戒心を解きほぐすためには、日本の核兵器は純粋に防衛的なものであることを、信憑性ある形で伝達する必要がある。少なくとも以下のような3つの施策がとられるべきである。

①最も重要なこととして、日本の軍事力が侵略のために用いられることのないよう、自衛隊を再編すべきである。具体的には、陸上自衛隊の縮小が、核武装に先立って行われるべきである。陸上戦力なしに他国を侵略することはできないのだから、日本の核武装は純粋に防衛のためであり、他国侵略の意図がないことを伝達するにあたって、陸上戦力を保有しないことが最も単純かつ効果的である。同様に、昨今整備が進んでいる水陸機動団(海兵隊)についても、縮小・廃止すべきである。

②大陸間弾道ミサイルを保有しない。日本の核兵器は、端的に北京まで到達する能力さえ持てばよい。そこで、日本の核武装がアメリカの安全保障の脅威にならないことを伝達するには、アメリカ本土にまで到達可能な大陸間弾道ミサイルを保有しないことは絶対に必要な条件となる。

③アメリカ本土の攻撃能力を有しないと信憑性ある形でコミットするためには、日本は核兵器を搭載可能な戦略原潜を保有することを諦めねばならない。一般に、戦略原潜を通じた第二撃攻撃能力の保持は、核抑止が機能するために必要な条件だとされるが、核武装にあたってアメリカおよび周辺国からの理解を必要とする日本は、戦略原潜を保有すべきではない。

以上の3点に留意するならば、少なくとも中国とロシアを除く諸国に脅威を与えることなく、核武装を達成できると予想できる。

真かつ美だが、善ではない―日本の核抑止戦略


さらに考察を続ける。冷戦期アメリカの戦略は、「多角的オプション」戦略であった。すなわち、マクナマラは

「あらゆる状況に対応しうるように、上は脆弱でない核攻撃力から下はゲリラ戦に対する特殊戦能力まで、多角的な能力を作り上げ、その使用の段階をできるだけ細分化した。それによって彼は処理すべき問題にふさわしい力を用いることができるようにした。つぎに彼はこうして分けられた段階のすべてにおいて、他の国よりも強い力を持とうとした。それによって、アメリカは相手側のエスカレーションを防止し、みずからは万一の場合にはエスカレートできるようにして、その立場を強めようとしたのである。マクナマラ戦略の中心概念であるオプション(選択)とは、この二つの準備によって、さまざまな状況に対処するより広範な能力を持とうとすることにほかならない」(高坂 1966: 64-65)。

筆者は、日本はこのマクナラマの常識的な「多角的オプション」戦略を取り得ないと考える。二つの理由がある。

①多角的オプション戦略は、大国のみが採用可能な戦略である。日本が多角的オプション戦略を採用するならば、あらゆるレベルの軍備を整備する必要に迫られる。日本の核武装は中国との関係を必然的に悪化させる以上、当然、仮想敵国である中国もまた、日本の核武装および軍備強化に対し、軍拡で対応してくるだろう。結果として、日中は泥沼の軍拡競争に引き込まれることになる。そのような軍拡競争は、老いて貧しくなりつつある日本にとって、致命的な打撃となるのは確実である。

②「選択肢の拡大」が交渉上、有利な結果をもたらすとは限らない(e.g., シェリング2018: 48-50)。ある条件が満たされた場合、日本側が核兵器を先制使用することにコミットできる限りで、核兵器は抑止効果を発揮する。もし日本が通常兵器を整備し、日本側がエスカレーションの選択肢を保持できたとすれば、日本側がどの時点で核兵器を使用するかどうかは中国側からは疑わしくなり、中国側が日本側に対して神経戦を仕掛けてくる余地ができてしまう。「多角的オプション」戦略は、あえて日本が核武装する意義を損なうのである。

核抑止が機能するためには、ある条件を満たした場合に、日本側が核によって反撃することにコミットし、そのコミットが中国側にとっても信憑性ある形で伝達されていなければならない。

核兵器の先制使用にコミットするにあたって、通常戦力の壊滅が誰にでも分かるシグナルとなるだろう。先に述べたように、日本は核武装にあたって陸上自衛隊を大きく縮小すべきである。ということは、日本に残された主たる通常戦力は、海上自衛隊および航空自衛隊ということになる。海上および航空自衛隊は、例えば尖閣諸島あるいは沖縄に対して本格的な侵攻があった場合には、全力で防衛にあたるべきである。しかし、彼我の戦力差から、海上・航空自衛隊は、壊滅するであろう。

海上・航空自衛隊の壊滅は、陸上戦力と違って、容易に観察可能である。というのは、陸戦においては士気さえ高ければ一般市民を戦力化することは比較的、容易だが、艦艇および航空機は、破壊されれば短期間での補充は難しい。そして日本は陸上自衛隊を弱体化させているのであるから、日本に残された武装は核兵器しかないことになる。

ということは、海上・航空自衛隊が壊滅した日本は、防衛のために核兵器を用いることにコミットできる。核兵器の標的は、上陸してくる敵軍であってもよいが、そのことを知っている敵国は日本の核攻撃能力を無力化しようとするであろうから、一足飛びに戦略核で北京を灰燼に帰さざるを得なくなるだろう。そのことを知っている中国側は、容易には日本に侵攻することはできなくなるだろう。

ただし、日本側から北京に対する核攻撃にどうやってコミットするかという問題が残っている。北京に対して先制核攻撃するにあたって、日本側は当然、感情的なレベルでの反発を乗り越えねばならない。どのように取り繕っても、無辜の市民に向けた核攻撃は、「戦争行為」ではなく、「殺人」(アンスコム 2022)である。戦争は、海上・航空自衛隊が壊滅した時点で終結し、北京に対する報復は、大量殺人でしかない。このことは、はっきりと認識しておく必要がある。

そして、単なる大量殺人に対しては、誰しも自然な感情的反発を覚えるだろう。その人間的な感情的反発を乗り越え、北京を戦略核によって無慈悲に攻撃することに日本側がコミットできなければ、抑止力は発揮されない。人類の悲惨であるが、致し方ない。

戦略状況を再述する。①海上・航空自衛隊が壊滅した場合、日本に残された武力は核兵器だけなのであるから、②日本側は核兵器によって反撃せざるを得ない。③そのことを知っている中国側は、侵略に際して日本の核兵器を攻撃し、無力化しようとしてくるだろう。④その際、日本は確実に無辜の北京市民を大量に殺害しなければならない。

④にコミットできなければ、日本の核武装は抑止効果をもたないのである。④にコミットするためには、核ミサイルの配備場所を都市に集中するのが一助となるだろう。具体的には、札幌・仙台・東京・横浜・名古屋・京都・大阪・福岡という日本の主要都市に核ミサイル・サイロを設置することとする(広島・長崎・沖縄は、除外される。これは、道義の問題である)。これら日本の主要都市に置かれた核戦力を同時・確実に無力化するためには、中国は先制全面核攻撃を行わねばならないだろうが、もしこれらの都市が核によって壊滅するならば、それは日本の喪失を意味する。とすれば、日本政府もまた、2000万の一般市民と共に北京を地図上から消滅させるに足る道義的な理由を有することになるだろう。

このような議論は完全に正気を逸しているが、実際に議論されたことがある戦略である。シェリングは、次のように述べている。

(・・・)ソ連は本当にミサイルと都市を隣り合わせて配置するかもしれないという議論があると私は承知している。それは、核兵器が攻撃された後には失うものがほとんど残されておらず、反応が軍事目標に制限される誘因がほとんどないことを示して、都市に対する大規模攻撃を伴わない「綺麗な」戦略戦争が起こる公算をより小さくするためである。仮に戦争が生起する蓋然性が高かったとしたらこの政策は危険なものであろうが、このロジックには価値がある(シェリング2018: 63-64)。

この戦略は、「相互確証破壊(MAD)」戦略ではない。日本の全主要都市の消滅と北京の消滅を引き換えにする戦略なのであるから、おそらく「骨を切らせて肉を断つ」戦略、「確実に一矢は報いる戦略」と名付けられよう。

このような狂気の政策を採用するにあたって、日本の核ミサイル・サイロは、通常兵器による攻撃に対する防御力を備えていなければならないのは当然である。また、先に述べた理由から、戦略原潜を保有できないのであるから、第二撃能力を保持することも難しい。日本各地に隠された核ミサイル・サイロを整備するという戦略も考えられるが、そうしたやり方は日本の保持する核戦力の実態を知ることを難しくし、周辺国なによりアメリカの疑心暗鬼を招くだろう。日本の核戦力の所在は、可能な限り公開されていなければならない。

とすれば、中国側の先制攻撃を確実に察知する能力を日本は持たねばならないことになる。すなわち、情報機関の整備である。公安警察から独立させた独自の情報機関および防衛省/外務省合同の情報機関を整備するべきであろう(参考:https://note.com/shintoyo/n/na033e65e204c)。

また、もちろん以上の抑止戦略が破綻した際の対応も考えておく必要がある。まず、国際情勢が緊迫した場合、都市の住民の疎開先を準備しておく必要があるだろう。具体的には、九州南部・中国地方・北陸東北・札幌都市圏を除く北海道各地に、住民が疎開できるよう予め計画を策定しておく必要がある。

また、万一抑止が破綻し、日本(そして北京)が火の海に包まれた際には、復讐心に燃えた中国は当然として、ロシアもまた、日本各地に侵攻してくると予想できる。その際には、希望する日本国民は武器をとって侵略に抵抗できるだけの態勢は整えておくべきであろう。陸上自衛隊は整理縮小するにせよ、精鋭からなる教導部隊は温存し、防衛戦に際しては市民に軍事訓練を与えるよう準備しておく必要はある。

おわりに


以上、日本が取るべき安全保障政策の「プランB」について、非専門家の身ではあるが、私見を述べてきた。強調しておきたいことは、以上はあくまでもプランBであって、現実に実行に移す必要はないということである。むしろ、実行に移す必要に迫られた段階で、日本の外交・安全保障政策は深刻な危機に瀕していることになる以上、現実化しない未来こそが日本にとって最大の国益となることは疑いない。

とはいえ、プランBは持っておく必要がある。以上述べてきたプランBは全て、1950-60年代に活発に行われた国際政治学の理論に則っており、狂ってはいるが、実際的には保守的な内容である。そして、そうしたプランBを持っていることを、対国内的・対国外的に明示しておけば、日本はこれから維持するのにますます大きなコストがかかってくるであろう日米同盟を、確固たるものとするのに資するだろう。結局のところ、男女の仲と同じく(別に男女に限る必要はないが)、一方が他方に依存する関係は、長続きしない。あるいは不安定となる。相互に独立する気概を持たなければ、長期的な関係を築いていくことは難しいのだ。

さて、安全保障政策とは、極めて専門性の高い領域であるから、私のような素人が何かを述べるのは、本来、おこがましいことである。急逝された五百旗頭真先生が、満州事変に際して石原莞爾が果たした役割について書かれていたように(五百旗頭2017)、本来ならば国家の最高レベルで論じられるべき事柄を、一介の政治学者が白昼堂々と論じたてることは、危険な結果をもたらしかねないのも確かである。

それでもあえてここで私見を述べたのは、現在、日本で展開されている外交・安全保障政策に、限界を感じたからである。というのも、後者の科学として国際政治学を探求する先生方の議論は、どうしても「固く」なる傾向がある。専門のことになると(私の場合は、政治制度論と体制変動論)、どうしても意見が「固く」なる。その固さは、良いこともある面で、純粋に学問的な論争に大きなエネルギーを費やしてしまいがちにもなる。例えば、国際政治学における「イズム」間の論争や、あるいはイズム不要論(e.g. 多湖2020)などは、学問的な見地からは重要である一方で、政策的含意を引き出す上では、その貢献は限定的なものに留まるだろう。

他方で、前者の政策系の国際政治学者は、実務家と恒常的にやり取りをしている都合上、色々と「書けないこと」「言えないこと」が出てくるだろうことも、容易に想像できる。時には、学を歪めて、政治に阿った発言をしなければならない仕儀に立ち至ることもあるかもしれない。

とすれば、政策系の国際政治学と、科学としての国際政治学の双方から、折衷的・妥協的に影響を受けて、ある意味で無責任にいいとこどりをできるポジションにも意義があると言えそうである。非専門家としての「距離」が取れるが故に、実務系国際政治学の桎梏や、純粋国際政治学の固さから自由になれるとも言えそうだからだ。「距離を取れること」「無責任な立場であること」「アマチュアであること」は、実は国際政治を考えていく上で、重要なことかもしれないのだ。

もちろん、SNS上の議論が、大きな政策的インパクトを与えるとは、私も思っていない。また、与えてもらっては私も困る(恐ろしくて何も言えなくなる)。とはいえ、非専門家が積極的に国際政治・安全保障の問題について発言していく環境は、日本にとって重要である。率直に言って、外交・安全保障の議論は、一部の実務家と専門家が独占してはならないトピックであろう。そうした議論に資するよう、筆者としては今後も折に触れて言うだけは言っていきたいと思う。








参考文献


アンスコム、G. E. M. (2022)「トルーマン氏の学位」『インテンション』(柏端達也訳)岩波書店.

五百旗頭真(2017)「満州事変――「すでに出たものは仕方がなきにあらずや」」『アステイオン傑作選』

高坂正堯(1966)『国際政治-恐怖と希望』中央公論新社.

高坂正堯 (2008)「核の挑戦と日本」『海洋国家日本の構想』中央公論新社.

シェリング、トーマス (2018)『軍備と影響力-核兵器と駆け引きの論理』(斎藤剛訳)勁草書房.

多湖淳(2020)『戦争とは何か―国際政治学の挑戦』中央公論新社.




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