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キリストの石打の刑を絶対善で考える

聖書にはキリストが石打の刑で死刑になるはずだった姦淫女を救ったと言う有名な話があります。


「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、イエスに言いました。『先生、この女は姦淫(浮気)をして捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたならどうなされますか』 彼らはイエスを試したのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい』この言葉を聞いて誰も女に石を投げられなくなってついにみんなは去り、女は助かりました」


この話について一般的には「キリストはさすがに賢者である」と思われていますが、私の言う絶対善で考えてみればあまり褒められたものではありません。その国の法律では姦淫は石打の刑で処刑にされるのです。つまり姦淫は現在の日本に当てはめれば数人の殺人を犯したのと同じくらいの罪であり死刑に相当するような重罪だったのです。それをキリストは言葉巧みに助けてしまったのです。それは正しい行為なのでしょうか?


私の善の定義は「善とは公(みんな)の為」です。つまり「キリストのやったことが公の為であれば善であり、公の為にならないならば悪である」と言うことです。いわゆる死刑に匹敵する罪を犯した女をただ罰も与えずに助けたのは、本当にその国の「みんなの為」になったのだろうか?ということです。


では、その事件のその後のことを少し想像してみれば・・・キリストに助けられた姦淫女は、死刑になるような重罪でも犯してしまうような女ですので、次もやがていつか姦淫(浮気)をすることでしょう。

そしてまた浮気がバレて捕まり石打の刑に処されようとしたとき、今度は姦淫女がこう言うのです「あなたがたのうちで罪のない者が最初に私に石を投げなさい」。この言葉を聞いて罪を犯した事が無いものなどいないのですから誰も石を投げることはできません。もし石を投げれば神に嘘をついたことになります。そしてまたまた姦淫女は助かってしまいました。これを見ていた女たちは姦淫しても何の罰も受けない方法を学んでしまったのです。これは姦淫だけでなく多くの罪に対しても「キリストのあの言葉」で罰せられなくなると言うことです。


そこでこの町では死刑に匹敵する重罪の姦淫などが流行りだして、宗教の戒律などあってもなきが如くです。そうなれば町の秩序は乱れに乱れてやがて町は崩壊してしまうことになるかもしれません。このように考えればキリストが姦淫女を助けたのは本当に正しかったのであろうか考えさせられます。キリストのおかげで、もし多くの町々の安寧秩序がなくなれば、それは悪となるのです。


このように絶対善が分かっていればキリストのような聖人のやったことにも疑問が生じてくるのです。では石打の刑の場面においてキリストはどうすれば一番よかったのだろうかと私なりに考えてみれば・・・やはり死刑に相当する罪を犯したのであるから、姦淫女はそれなりの罰は受けなければならないでしょう。正しくないことを行えば、必ずそれなりの責任は取らねばなりません。これは人間社会の掟、大原則です。この大原則に反してはなりません。キリストはこのことさえ分かっていません。


ですからまず初めにキリストは「大きな罪を犯していない者から石を投げなさい」といい、女がもう充分罰を受けたと見たら今度は「小さな罪さえも犯してないものは石を投げなさい」と言えばよかったのかもしれません。または「大きな罪を犯してしない人は小さな石を、小さい罪も犯していない人は大きな石を投げなさい」と言えばよかったのです。そうすれば姦淫女はそれなりの罰を受けたが死ぬことはないのです。


まあ、当時はソクラテスやプラトンのような賢人たちでさえ絶対善は分からなかったのですから、聖書を書いた賢人たちも勿論、絶対善は分からなかったのでしょう。ですから絶対善で見れば聖書にもおかしなところもいろいろ見えてくるのです。

またついでに言えば「イエスはあなたならどうするのか」と問われても、しばらく地面に文字を書いていたと言う表現は「俺もこの問題はずいぶんと考えたんだぜ」と聖書を書いた賢人が言いたかったのではないでしょうか。


勿論、上記は私一人の考えであり、本当はみんなで考える方がいいのです。そうすればまた違った善い考えも出てくるかもしれません。ですから絶対善、絶対的に正しいことは、私欲を抑えて「公(みんな)の為になるには?」とみんなで考え結論を導くことが大切なのです。

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