表現の心性∥<現在>であるために

 この世界に<作品>(曲)として生み出されたポピュラー音楽のこの世界での存在条件の基本は、いつの時代も変わりなく、”より多く売れる”ことである。
 そして、その作品(曲)が宿している意図は、その曲の作り手の意図とは関係なく、いつの時代も変わりなく、”より多く売れたい”である。

 現在、日本において、最新のコマーシャルやドラマや音楽番組などのメディアを通して届けられる、最先端に在るといわれる音楽に共通しているのは、「なにもない」感覚である。
 それは、「なにも表現していない」といった感覚でもない、また、いわゆるネガティブな意味での空虚感でもない、もっと大きな、音楽として、そこになにもない・・・・・・・・感覚である。

 おそらく、現在では、「そこに、なにかが在ってしまう」と、その音楽は、<現在>ではなくなってしまうのである。
 そのために、「なにもない」ように、注意深く、<現在>が用意した物語のふちをなぞるように生み出されているのである。

 それは、その音楽の作り手のなにかを表現しようという意図も、それが作品(曲)の響きとなって<現在>に現れると、そこには、いわば、ネガティブでもないポジティブでもない、ただあたりまえな「なにもない」感覚がひろがっているということである。繰り返し、いつもの物語の縁をなぞっている感覚の意図の痕跡のようなものが残っているだけで。

 おそらく、現在では、この世界に生み出される曲の響きが、<現在>であるためには、その音楽はそのように響くしかないのである。
 そして、そこには、”より多く売れたい”といった意図だけが透けて見えている。
 ”より多く売るため”といった、<現在>からの、有無を言わせない無言の要請の手に幸せそうにいだかれた意図だけが。


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