武蔵滝山城について②大石氏①

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今回は、滝山城の築城年と築城主をついてです。
滝山城の築城年には、1521年または1558年と言われています。
滝山城は、大石定重、定久父子または、小田原北条氏3代目当主北条氏康の3男氏照によって築城されたと言われます。
大石氏は元々は信濃国小県郡大石郷出身と言われます。室町幕府になると関東管領の家臣となり、武蔵守護として当麻、武蔵を知行地していました。
しかし、天文15年(1546年)に起きた河越夜戦で、主君である関東管領上杉憲政が後北条氏に大敗すると、小田原北条氏の軍門に降ります。その後は、大石氏の領地は、小田原北条氏3代目当主氏康の3男である藤菊丸(氏照)の物になります。
北条氏照については次回以降へ。
では、大石氏は本当に河越夜戦が要因で小田原北条氏についたのでしょうか?

引用フリー百科事典 銀杏の二葉ウィキペディア日本語版

【大石氏はいつから小田原北条氏へ臣従】
河越夜戦以前から大石氏は小田原北条氏(以降後北条氏)へ
臣従しており、忍城主成田氏も先に臣従していたと言われます。
きっかけは、北条氏綱による葛西城の戦いと思われます。この時、大石氏は葛西城の城将と守っていましたが、北条氏綱の軍勢があまり強く、この頃から、大石氏が後北条氏に意識していきます。しかし、鎌倉にある鶴ヶ岡八幡宮の再建の際は後北条氏の要請を拒否しています。
後北条氏は、煮え切れない大石氏の滝山城を攻めます。(甲陽軍鑑)

その際、大石右衛門佐や同五郎左衛門が討たれてしまいます。このことにより、大石氏は、後北条氏に臣従へ決心したと言われます。そして、河越夜戦では、主君である関東管領上杉憲政の出陣の際に、出馬せず、静観していた大石氏はすでに関東管領家の先が無いということを悟ったため、河越夜戦直後、後北条氏の軍門に降ったと思われます。

大石氏が過去帳に大永元年と書かれていますが、
御岳社の棟札には滝山城に関する記述があります。
この棟札の始めは【天文2年】と書かれています。




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