きっと神様はいるという話。

こんばんは、焼却炉です。トレーニングではどうしようもできない部位がつかえてワンピースに敗北しました。骨を折って縮めたら入るかな。

今日は最近よく宗教だとかなんとかの話を耳にするので、ふと思いついたことを書いてみようと思います。


「神様」が居るから苦しむのだということ。


「神様なんているわけない。いるならなんで私を助けてくれないんだ!!」

と叫ぶ人がいる。その人がどんな生き方をしたかは知らないし、どんな経験をしたかも知らない。まぁ、ただ何かしら辛い思いをしたのだなあぼんやり無責任に思うだけで、その辛さがどれほどの大きさかはかって理解をしようだなんて、相当仲良くないとそんなことはしない。というか、人は経験したことのないことを完全に理解するのは難しいのだけれど。

でも、別に「神様」がいないから苦しんでいるわけじゃない。その人が何を「神様」にするかによって、苦しむことがある、という話。

「この人のことを信じなければならない。」
「この人の言うことは聞かなくてはならない。」
「この人についていかなくてはならない。」

そうやって、誰かを自分の「神様」に仕立て上げて、崇めて、奉って。そうさせる人は意外としょうもない人間だったりもするし、そんなしょうもない人間を「神様」に仕立て上げる自分もまた、しょうもないのだと思う。人にも、もしかしたら本物の神様にも、容量というものがあって。愛情の容量、心の余裕の容量、金銭的な容量、そういったさまざまな容量はそれぞれの個体によって違う。だから本物の神様も色々いるのだと思うし。そんな容量に余裕のある人を「神様」にするのならば、まだいいのかもしれない。その人を追いかけて、見習って、成長できるのかもしれない。

でも余裕のない人を「神様」にしたら、どうだろう。容量が少ないから与えられるものは少なくて、でも信者はそれでは満足しない。自分勝手だから何か基準を勝手に作ってそれを満たさないとだんだんだんだん心がよどんでいったりする。「神様」にもっと頂戴といって、要求するかもしれない。でも「神様」はそれに答えられるだけのものはなくて。悪循環が始まって。

そうやって苦しむ人がいて、心がいっぱいいっぱいになって、助けてくれないと悲しむのもなんだか大変だと思う。

そんな「神様」必要だろうか。いらないんじゃないかな。

救ってくれない「神様」なんていらないし、元はただの人間なんだから、我に返れば崇める必要もなくて。そう切り捨てられればいいのだと思う。
信じるか信じないかは自分が決めればいい。地獄までついていくと決めているのならばそれはそれでいいと思うし。でも叫ぶ元気があるのなら、今の「神様」なんて切っちゃえばいいんだ。


昔話。

私もしょうもない「神様」を信じていたことはある。
恐怖も苦痛も嘲笑もそういうことは全てそれが教えてくれた。知らなくてもいいことだった。今ではもう、元「神様」は私の中ではただの人間になって、その姿はちっぽけになり、なぜ、これに怯えていたのかなんてもうわからなくなっているけれど、あの時の私ともう一人にとっては立ち向かうことができない存在だったことは間違いなくて。今だったら私はもう一人を背にかばって、立ち向かうことができるけれど、もうそれは叶わないので。その代わり、私の手に収まる範囲の中で、大切な人を背に庇えるように。

こんな話をしていたら、そういえばボーカロイドの曲に神様になりたいみたいな曲があったことを思い出した。正式なタイトルをど忘れしがちだな。

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