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13 収容所にて 〜そして帰国〜

 「藻屑」に私の戦争体験を何回か書いてきたが、実は(世話人の方には申し訳ないが)いつ「藻屑」が廃刊になるか分からないという気持ちがあって、急いで終戦まで筆を進めてしまった。 ところが私の戦争の方は終わっても藻屑はまだ続いているので、逆戻りしたり又進んだり、結局昭和20年9月始め投降して、戦争中に捕虜になった将校の収容されているキャンプに入れられる模様まで書いたと記憶している。

 さて、最後に収容所の生活を書いて締めくくりたいと思う。

 このキャンプではあり余る程のご馳走と、親切な連中に囲まれて実に平穏な日々だった。しかし1ヵ月程すると新しく投降して来る者が増えて来た為だろう、ここのキャンプから移動する事になった。身の廻りの品を信玄袋につめてトラックに乗せられた。途中で時々現地人の罵声を浴びながら(今もそれが何処だったのか知らないのだが)広いテントが百もあったろうか。そんな所へ降ろされ、米兵の指示通りのテントへ20名程ずつ入った。方向も今となっては判らないが(南十字星を見たから判っていた筈だが忘れた)中央に広い道路があり、両側に幾つかテントの列がのびていた。

 このキャンプには半数以上兵隊も入っていた。彼等は毎日作業に出るので、気晴らしも出来るし少々余得もある様だったが、将校は戦時国際法とやらに労役に使えない規定があるので、何もさせてくれなかった。11月頃に大体投降者も終わったので、日が経つにつれて話題もなくなって来た。そうなるとする事のない一日は実に永く、又辛いものである。囲碁や将棋は2、3日もしたら頭が疲れてそれ以上出来ない。結局麻雀に明け暮れる毎日が続く様になった。

唯一つの楽しみは、日曜日にキャンプ内にトタンで囲った教会が開かれることだ。そこへ行くとライフやニューズウィーク、リーダーズダイジェストといった雑誌をくれた。私はいつも雑誌だけ貰って後ろのトタンの下を這って抜け出し、解らぬ英語を苦労して読んだ。

 また、ここへ移ってしばらくすると、先ず煙草の配給がなくなり、食糧が極端に減って来た。朝と昼は豆のスープを棒でかきまぜながら米兵用のカップに八分目、運が良くて5、6粒の豆、悪ければ淡いスープだけすくい、夕食だけが今の学校の給食弁当の半分程度で、毎日のこの空腹は耐えがたかった。
こうなるとイライラする者があるのだろうか、何とも情けない事に将校の間でよくリンチが起こった。リンチを受ける原因は、その者の言動が米兵の心証を害しはしないか、そしてその為に食糧が減らされないかという、実につまらぬ想像から来るものだった。

 それがあまりしばしば起こるので、翌年の2月か3月頃、一人の大佐が将校全員に集まるよう、呼びかけた。 大体このキャンプは数人の米兵が朝夕点呼をとるだけで、日本人は皆同列だったのである。そこでその大佐は先ず、自分が一番先任者の様だから、云うべき立場かと思って集まって貰ったという切り出しから、身振りを交えて皆を笑わせたりしながら、要点だけはしっかり押さえて話を進めた。
つまり、単なる喧嘩ならいくらやろうと俺は関知しない。しかし米兵の機嫌を損じるかも知れぬという様な事でリンチを加えるとは何事だ。日本人として恥を知れ、と云うのだった。話は十分余りだったが、それ以後ピタリとリンチは止んだ。小柄な男だったが、彼は正に先任者に値する人物だと思った。

 さて、私は一番入り口側の列のテントにいた様な気がする。と云うのは前方に病院のテントがあるのをよく眺めたからだ。病院で思い出すのは、毎朝二人の日本兵が何回か荷物を病院の横の穴に運んで最後にガソリンをかけて火をつける。その炎と黒煙がドッと空に舞い上がるのが日課だった。初め私はゴミを焼いていると思っていたのだが、誰からとなく病院で亡くなった日本人を毛布にくるんで焼いているのだと聞かされた。
 昭和21年の1月頃だろうか。マニラで戦犯の裁判が始まったが、容疑者の一人が自殺を図ったとかで、病院の前にヘリコプターが舞い降りた。すると何処からともなく、次々とジープが乗りつけて、廻りがジープで埋まってしまった。もちろん私がヘリコプターを見たのはこれが初めてだったが、その頃は米兵にとってもヘリコプターは珍しかったのである。

 病院の左手に小さな鉄条網の囲いの中にテントが一つだけあった。これが数人いた将官の捕虜だという事だった。時々散歩しているのが見えたが、顔までは識別出来なかった。
 そのずっと向こうに朝鮮人のキャンプがあった。ここは実ににぎやかだった。手製の楽器を鳴らして騒いだりして楽しそうだった。一応戦勝国という事だったのかどうか、待遇がよかったのかもしれない。しかし作業に出る兵隊の話では、米兵は日本人の方を差をつけて丁寧に扱ってくれると聞いたが、真偽は知らない。ただ一般的にいって日本人は権力に従順だから米兵としては怒る必要がなかったのだろう。

 又、近くに兵隊ばかりのキャンプや婦人専用のキャンプもあった。変な事だが婦人キャンプへだけは月一回程、面会日があった。私のキャンプにシビリアンが居たからかも知れない。入り口の所へ集まって人数を数え一人の米兵が連れて行ってくれた。婦人キャンプだけ鉄条網が二重になっていてその間へ放された。私も何回か行ったが、勿論知人はないので唯うろついて目の保養をするだけだった。米兵はそんな事には一向お構いなしで実に鷹揚なものだった。30分程すると合図があって又ぞろぞろ帰った。

 取り留めのないない事を思い出すまま書いて来たが、是非書いておきたい事を思い出した。
ある夜キャンプで討論会という程でもないが、戦後の日本について話し、意見の交換会があった。その時一人の男が天皇を誹謗する発言をした。
すると直ちに数人の男がいきり立って怒鳴りながら襲いかからんばかりの勢いになった。幸いキャンプには電灯がなかったので、その男は闇と群衆にまぎれて難を逃れたが恐ろしい事だ。毎日新聞によれば今も日本史の教科書検定官は、皇国史観の持ち主が当たる事になっている様だが、こんな問題に多くの人に関心を持って頂きたいものだ。

 旧い話になるが、文春の「無声対談」で松本治一郎に対して徳川夢声が「天皇は殺人の凶器に使われたのであって凶器に罪はない」と云うのに対し松本氏は「凶器を放っておけない」といったやり取りがあった様に記憶している。その凶器は今も手入れをすれば絶大な切れ味を取り戻すだろうし、又それを使いたがっている連中もいる様な気がするのだが・・・・・まあこんな話はこの辺で。

 他にも昭和30年代に、最後の戦犯として恩赦を受けて比島から帰国した、峰尾参謀にまつわる話や、某名士の裸の姿、色々思い出す事が出て来るがそろそろ帰国を急ぐとしよう。

 20年の終わりに私のいたキャンプからも帰国が始まったので喜んでいたが、すぐ途切れてしまった。専ら中国大陸の方へ帰還船が廻っているという噂だった。
 翌21年4月頃になって再び始まった。どんな順序か誰にも解らなかったが、私は5月の終わり頃やっと名前を呼ばれて、トラックに乗せられマニラ港へ向かった。

 一番印象に残っているのは車が海岸通りへ差し掛かった時、道路沿いに延々と積み上げられた膨大な軍需物資の山である。ジープのタイヤなど整然と積み上げられ、見当もつかない数だった。終戦時、米軍の武器弾薬の量は日本の930倍あったという記録があるが、とても比較出来るものではなかった。
 マニラ港にはまだ日本の沈船がCAUTIONと大きな立看板を付けられて残っていた。船は貨物船の船倉にカイコ棚を作りそこにごろ寝だ。鉄板一枚外は太平洋の水だった。水道の栓をひねっても海水で、のどが渇いて弱った。何日かの船旅の末、船はやっと雨に煙る佐世保港に着いた。昭和21年6月初めだった。

 上陸手続きをした近くの部屋に、各都市の焼失区域を示す地図があった。
そこで私は自分の過去が総て灰になっている事を知った。

(第18号 昭和五十七年・1982年 三月二十日発行)

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