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1 創刊号に寄せて、思いつくままに 〜戦争の記憶を辿って〜

さて、何か書こうと思っても書くことがない。平凡な人間が平凡な事を書いても二葉亭四迷の様な才能でもない限りサマにならない。まあ特異な体験といえば陳腐だが戦争のこと位になってしまう。その辺から思いついたまま書いてみよう。

 其の一、昭和20年5月の或る日の事、既に米軍に追われてマニラから東方の山へ逃げ込んでいたのだが、銃声が近づいて来たので、夕方ほら穴から出て様子をうかがうと米兵がうろうろしている。実際に敵を目の前にして、ふと見知らぬ人間同士が殺し合いをしている現実が何か奇妙な感じがしたのを憶えている。そして撃てば殺せるかもしれない場面が何度かあったが私は撃たなかった。なぜかというと憎しみがなかったからではなく、撃ち返されるのが恐かったからである。

 其の二、私は9月1日に投降してマニラの刑務所に収容されたのだが、3日の日の夕方山下将軍が同刑務所へ送られて来た。そして死刑囚の入る独房へ入れられたのだが、これについて米軍は「この事は将軍を死刑にすることを意味しない」と釈明をしていた。その時は何故わざわざそんな事を云うのかと訝ったが、その後絞首刑が決まって、そうかと思った次第である。しかし山下将軍も自分の運命を予知していなかったのではないかと疑問に思う。彼が刑を執行された夜、私のキャンプから僧職の人が立合いに行ったのだが、将軍は「自分がこうなるのは判っていた。しかし自分が山を降りなかったら残りの将兵はどうなるのか」という様なことを云ったそうだ。ところが終戦の数ヶ月前から比島の日本軍で山下将軍の動静を知る者は誰もいなかったのだ。

 其の三、終戦前に部隊単位で投降した例はあまり聞かないが、一年も前にそれを実行した部隊があったのである。昭和19年には南方の海で航行する船舶は十中九隻迄が米潜水艦に撃沈される状況であった。そこで部隊を移動させる為に病院船を仕立てて全員白衣を着用しカルテも整えて、もし露見したら自爆する様に爆薬を仕掛けていた。案の定米軍に取り調べられ偽装がばれてしまったのだが、その時部隊長は自爆せず全員に投降を命じた。その後部隊はフィリピンに送られたのだが、私は最初彼等の収容所に入れられたのでその事を知っている。もしその時の部隊長が生きておれば名乗り出ないかと時々思う。無為に部下を死なせなかった隠れた英雄である。

 其の四、比島では多くの日本人が食料も弾薬も尽き、飢えや病で、或いは自ら死んでいった。彼等の多くは捕虜になると殺されると信じ、又家族の恥と思い死を選んだのである。ところが収容所で、自らの意思で投降した何人かの人に出合った。彼等は捕虜の取り扱いについての国際的な取り決めやその評価、つまり勇敢に戦った結果であること、又日本の敗戦についての見通し等を充分知って行動したのである。だから心ならずも捕らわれた者が殆んど偽名を使っていたのに対し、彼等は堂々と本名を名乗っていた。彼等にその様な行動を選ばせたのは、豊富な知識と判断力であったと思うのである。

(創刊号 昭和五十一年・1976年 七月一日発行)

             ※「藻屑」表紙の題字とカットも父が描きました。


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