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【揉まれ期】Chiroとセパタクロー③



intro


ギャップイヤーをしてから、私自身の弱点を知ることができました。


それは、思ったことを相手に伝える、ということです。



もしかしたら、多くの日本人が抱えることかもしれません。


まぁ実のところ、「察してほしい」とはまた少し違うのですが、




私は非常に、思ったことを相手に伝えることが苦手です。

特に


「私はこう思うから、こうしてほしい。」

系の、お願い直して!ニュアンスの時です。


どうにも思いを正直に伝えることに、難しさを感じます。



言語の特性上、我々の日本語には

その文が持つ意味 + 汲み取ってほしい意味


というのが存在しますよね。


ただその感覚というのは日本語にしかないもので、

特に英語ではないと言ってもいいでしょう。



私の文章から汲み取ってほしい。

そんな願いは、英語が拙い私に取ってはあまりにも遠いことなのです。


のみならず、やはり人というのは伝えないと理解できないものです。

コミュニケーション無くして、知ることなし。



私の同居人は、クチャラーで
その辺りイライラすることがあります。

あまりありがとうを言わないのも、少し嫌です。


でもそのことを伝えないと、私が感じていることを彼は知る由もありません。


勝手に嫌いになるのは、あまり良くないですしね。


いつか頑張って言ってみます。


はい、本編へどうぞ。





Chiro さいたまに戻る




【出会い編】【転機編】をお読みになっていない方、

こちらも合わせてどうぞ



さて、前回の投稿までで


セパタクローに出会う

埼玉に戻り、本格的に始める。


までいきました。


今回のお話は、埼玉に戻った後について。

そして私の愛するコーチ矢野さんについて、少しお話をしたいと思います。


どうぞお付き合いください。






中学2年生の冬にさいたまに戻ってきた私は、都会という利便性を活かして

活動範囲を広げながらセパタクローの練習に励みました。


されど、マイナースポーツ「セパタクロー」


サッカーやテニスのようにすぐに練習相手を見つけることはできませんでした。

一人で練習する時間は、続きます。


近くの市営体育館のバトミントンコート一面をレンタルし、

自分でボールを蹴る。



自分でトスをあげて、自分でアタックを打つ。

壁にボールを投げて、レシーブをする練習。

ただひたすらにリフティングをする。



当時の動画を見返すと、とってもおぼつかないボール捌きですが、

あの練習があったからこそのスキルを得たのだと思います。



今思い返すと、

自分はどんなモチベーションで、1人練習していたんだろうと

不思議に思います。





1. 鹿児島のクラスメイトを思い返して。



私が鹿児島の学校を辞める時、

「セパタクローで日本代表になるために、さいたまに戻ります。」

と、真面目な顔で挨拶をして学校を出ました。



あの時、どんなふうにクラスメイトが感じ取ったのかはわかりませんが、

でも鮮明に覚えていることがありまして、


クラスの教壇に立って挨拶をした時、

一番前に座っていたHくんが泣いているのを目の前で見ました。


14のガキンチョでしたが、

自分の決断に涙を流して寂しがってくれる人がいる。

と、深く心にきて


絶対に結果をのこす、と決めました。




 もう一つストーリーがありまして、



私は、学校を辞めることを二学期の終了式まで誰にも言っていませんでした。


寮生活のクラスメイトに言わないようにしていたのは、確か父親からのアドバイスだったのかな?
なんで言わないようにしていたかは、覚えていませんが


とにもかく

終了式が12/22で、私が寮を出るのが12/23


一晩だけみんなと過ごす時間があり、


そのわずかな時間で、一冊のメッセージノートを綴ってくれました。

本当に短い時間だったとは思うのですが、
クラスメイトのみならず、多くの先生からメッセージをいただき、


きっとそのノートが

私の背中を押し続けたんだと思います。




2.セパタクローカメラマンに教わったこと


セパタクローの写真を撮っていただいているカメラマンさんに

 高須さんという方がいらっしゃいます。


高須さんの個展に行った時のことで、


長年セパタクローを追っている高須さんから、


「どれだけ長くボールに触っていたか」

「それがうまさに直結する」


というアドバイスをもらいました。


実際に、セパタクローの本場

タイなどの国に何度も足を運んでいる方が

持つ知見。


「その年齢からボールを蹴り続ければ」

「誰も追随できないほどになる」


確かに当時中学生がセパタクローをするというのは、本当に稀で

多くのセパタクロー選手は大学生から始める方がほとんどです。


その誰も覆すことのできない、時間軸のアドバンテージ。


それを認識した私は、自主練習でさえも価値あるものだと認識しました。




3. 偉大なるコーチ 矢野順也


そして、私のセパタクロー人生において最も大切な存在

矢野さんです。



実は、私が初めてセパタクローに出会った場所に矢野さんはいて


鹿屋体育大学と繋いでくれたのも矢野さんでした。

さいたまに帰った後面倒を見てくれたのも、

試合の監督を務めたのも、

チームメイトを見つけたのも、


全て矢野さんでした。



セパタクロー界隈で知らない人はいない、それほどに忙しい人なのにも関わらず、

いきなり鹿児島から帰ってきたガキンチョの面倒を見てくださり

感謝の気持ちでいっぱいです。






矢野さんから学んだことはいっぱいあります。


もちろんセパタクローの技術もなんですが、

特に後々大きな影響を自分にもたらしたこととは、


教育観


についてです。



現役選手ののち、日本代表女子監督になった矢野さん。

多くの選手を育ててきたからこそ持つ教育観が

私の人生にさらなるヒントをもたらしたと思います。


こちらのお話は、
【コロナ期】Chiroとセパタクロー⑤

でお楽しみいただけます。





さて、セパタクローにのめり込んだ私。

小中学生で組まれたチームは大いに大会で目立ち、

ある意味で知らぬものはいない、チビちゃんプレイヤーになりました。

その後、高校生ではどうなったのか??


〈次回〉 日本代表になる。


お楽しみに




outro



今晩は、ホストマザーとファザーが外に食べに行ったので、

中国人の同居人と一緒にご飯を作りました。



彼は、麻婆豆腐。
私は、ポテサラ。

それご飯とステーキでいただきました。


流石に中国料理は美味。

こういう文化好感があるから楽しい。




今日はこれでおしまいです。


皆さんの週末はいかがだったでしょうか?

月曜日から頑張っていきましょう〜


cheers!




Chiro

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