上手くなる努力と下手になる努力

高校生の時の恩師はとてもとてもアーチェリーに熱心な人だった。
自分も選手として活躍しながら(各種全日本大会の常連且つ上位)指導者としても活躍していた。
3年間で生徒に結果を出させようと思ったら、「枠組み」とか「レール」が必要で、そこに生徒をはめ込むためには「洗脳」が必要でだったと思う。「枠組み」も「レール」も「洗脳」も、長所と短所あったけど…それはまた別の機会で。

「洗脳」のおかげで私は「一流アーチャーとして何が当たり前に出来なくてはならないか」を叩き込まれた。20年経ってアーチェリー関係者と話した時に、「あぁそれは高校生の時に言われてました」と言って驚かれることが多々ある。それだけ恩師の指導は濃縮されていた。

週に一度は行われるミーティングという名の、恩師による講演会。指導者となった今、よくあれを毎週できたな…と恩師の引き出しの多さに驚くと共に、粘り強さというか粘着性というか、狂気じみたものを感じる。それだけ必死に伝えたからこそ、伝えたことをやらない生徒には厳しかった。

そんな講演会で数回に一度は必ず出てくる話が、
下手な射ち方で努力すると下手になることがうまくなる。綺麗な射ち方で努力すると綺麗に射つことがうまくなる
恩師は綺麗な射ち方=10点に入る という考えの人で(必ずしもそうではないがトップ選手は癖のない綺麗な射ち方なので最低限必要なことという考え方。私もそう思う。)例えばリリースが弾けていたり、フォロースルーで押し手が落ちていたりするのは言語道断で、一刻も早く改善することを要求された。

「努力は裏切らない」という言葉があるが、それは本当だと思う。ただし、その「努力」はどんな「努力」なのか?
自分がなりたい方向、やりたい方向に確実に向かう努力であれば必ず成果が出るが、違った方向に努力すれば望まない成果が出てしまう。それを人は「裏切られた」と言っているだけだろう。

「努力」と言うと、歯を食いしばって、汗水垂らして、頑張って…と思うかも知れない。しかし、何も考えず適当に練習することも「下手になる努力」である。考えて考えて、それでも上手く出来ないのに比べたら、タチが悪い。なぜなら考えずに出来てしまうことは、無意識であるから。無意識に下手になる練習をしているのだ。

…と言う話を聞いて、「なるほど」と思い、練習に向かう。しばらくしたら恩師がやってきて、「今何考えて射ってる?」と聞かれる。答えられなかったら「無意識の下手になる努力をしている」し、答えたことが実際の射ち方と異なっていたら「下手な射ち方の練習をしている」と言われる。そこで、ああ、なるほどな、自分は甘いな、と思い知らされる。

恩師の話を聞いて、話の内容をすぐに実践して、出来ているか出来ていないかを(恩師の判断基準で、だが)ジャッジされる。理解したことを実践することの難しさ、理想と現実の違いを突きつけられる。これは結構苦しいのだが、めちゃくちゃ定着するやり方だった。

上手くなる努力と下手になる努力、自分がやっていることが、頑張っていなくてもどちらかになってしまうと言うこと。これはアーチェリー以外でも結構当てはまる。


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