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【本を読まないと馬鹿になる】

ありがたいことにInstagramで本を紹介し続け、現在までにフォロワー数10万人を超えることができました。

本当にありがとうございます。

そうなってくると、非常に多様な質問を頂きます。

今回は最も多い質問の1つである「本を読むと賢くなりますか?」という類の質問に対する僕の見解を述べようと思います。
(正確には、「本は読むべきですか」「本を読むとどんないいことがありますか」なども同様の類だと考えています)

もしよければ、皆様も一緒に考えて意見や感想をお聞かせください!

このnoteはInstagramで連載している[コラム]の30番目をより詳しく書き、投稿にまとめる際にスペースの関係で削った話なども追加したものになります。

(コメント欄にかなり多様な意見をいただいているので、そちらも見てみてください!)

まず、結論からから述べます。

本を読んで賢くなるかどうかは知り得ないが、本を読むだけでも少なくとも“馬鹿”という状態になることは避けれると思う。

唐突な“馬鹿”という表現に気を悪くした方もいるかもしれないが、もう少しだけ辛抱して話を聞いていただけると嬉しいです。
(この後も馬鹿という言葉は出てきます…)

そもそも“馬鹿とは何か”

今回、僕が馬鹿という言葉を使ったのには理由があります。

他に同様の意味の端的な言葉が見当たらないことだ。

例えば、通常は似た意味でつかわれる「頭が良くない(悪い)」や「賢くない」「鈍臭い」は、詳しく考えると馬鹿とは全く異なった意味だと思う。

馬鹿は馬鹿真面目とかって言われるように頭の良し悪しに関係なく、猪突猛進な感じというか、価値観が凝り固まり、頑固になってしまっている“状態”を指す。

言ってしまえば、馬鹿はその人の性質を表すものではなく、“状態”を表す言葉だ。(国語辞典的には違うかもしれませんが、少なくとも僕はそのように認識しています。思考停止とかなり近い意味です。)

こういう意味で馬鹿という言葉を考えたとき、読書をしていれば、賢くなるとか、何かメリットがあるとか、そういうことは人によるが、少なくともこの馬鹿という“状態”は避けられるという気がする。

読書しないと馬鹿になる

それでは、本題に入っていきます。

読書しないと馬鹿になる。

もう少し正確に言うと、読書している期間の自分に比べ、読書していない期間の自分は馬鹿になっている感覚がある

一定期間、読書をしていないと、頭が固くなったり、考えが浅くなったりするのだ。

一方、読書をしていると賢くなるかと言われると、それは分からない。

知識という面では、読む本にもよるだろうし、そもそもの頭の良し悪しは、生まれつきで決まっている部分がほとんどで、読書などの勉強ではあまり変わらないように思う。

ただ、繰り返しになるが、どんな本であろうと、“読書”という行為は、ただそれだけで我々が“馬鹿”という状態に陥ることは避けられる。

これには2つの要因が考えられる。
① 読書という行為の姿勢
② 考える機会が増加
ここからは、これら二つの要因をそれぞれ書いていきます。

① 読書という行為の姿勢

読書には、一定の能動的な姿勢が求められる。

しかも、短時間ではなく、ある程度まとまった時間その姿勢を維持する必要がある。

つまり、読書をするという事は、最低でも数十分から数時間の間、顔も知らない著者の文章を能動的な姿勢で読み続けるという行為をすることになる
(顔は知っている人はいるかもしれないが、基本的にはどこの誰かは知らない著者が多い)

この行為には、他者の話を聞き、自分の中に受け入れようという気持ちが内在する。

これが馬鹿を直接的に避けることにつながる。

人の話を聞けなくなると、価値観が凝り固まったり、頑固になってしまっていることが多い。聞いているつもりでも、ほとんどの場合が受け入れられなくなっている。

人の話や本に書かれた内容に従順に従い続ける必要はないが、一度は受け入れ、自分の実生活や価値観に取り入れるかをじっくり考えることは大切だ。

それを忘れてしまったら、馬鹿に近づいていく。

読書することで、人の話に耳を向け、受け入れようとする姿勢を維持することができるのだ。

② 考える機会の増加

読書の時間が減ると考える時間も減少する。

読書とは、「本に書かれた情報→読む→解釈→知識」という流れで進む創造的な行為だ。

本に書かれた情報や本そのものを自分の頭で独自に解釈し、自分の知識へと昇華していく必要がある。

受動的に書かれた文章を目でなぞるだけでは、読書していることにはならない。

こういう受動的な姿勢が要求される行為だから、“読書は単なる座学ではなく、疑似体験である”と言われるのだろう。

仮に本を全く読まず、他の媒体ばかりから学んでいると、ここの部分が抜け落ちてしまいがちだ。

例えば、YouTubeなどの本の要約動画だと、演者が本の内容をわかりやすくかみ砕き(解釈し)、説明してくれる。

そうなった場合、「本に書かれた情報→読む→解釈→知識」という流れから、中間の“読み取る→解釈”が抜け落ちてしまう。その結果、完全な受動的な学び、すなわち座学になる。

読書をし、読書を楽しめるようになることで、我々は“読む→解釈”という流れの中で、自然と“自分の頭で考える“という能動的で創造的な行為を行っている。

読書の時間を定期的に設けることで、馬鹿という状態に陥ることを避けられる。

まとめ

ここまで読書しないと馬鹿になるということについて書いてきましたが、最後によく並列に扱われる読書とインターネットについて話そうと思います。

読書とインターネットは“読む”という行為において似ていると言われがちだが、僕は決定的に違うものだと考えている。

インターネットを散歩とすれば、読書はジムでの筋トレのようなものであり、或いは、インターネットをファストフードとすれば、読書は栄養バランスが取れた健康的な食事のようなものである。

確かにインターネットがあれば、生きるに不便はしない。

ただ、散歩だけでは筋力がつかないように、インターネットだけでは“脳の筋力”のようなものが衰えてしまう。或いは、ファストフードだけでは栄養不足になってしまうように、インターネットだけでは十分な知識が得られず、バランスの良い教養を身につけることはできない。

だから、読書というお金も時間もかかる少し面倒な行為に意義がある

ジムに通っている人と通っていない人で肉体的に大きな差が生まれ、栄養バランスを意識している人としていない人で少しずつ健康に違いが生まれるように、読書をしている人としていない人では、どこかの時点で大きな差が生まれてくるのだ。

これを読まれている方は読書家の方が多いと思いますが、もしあまり読書をしていない方がいましたら、インターネットを使う半分の時間くらいは読書に時間をあててみて下さい。

長期的に見たら、そうしなかった場合と大きな違いが実感できるはずです。

感想

という風に[コラム30]をもとに書いてみましたがいかがでしたでしょうか。

個人的には一度削った文章を肉付けしながら書くのは、難しかったです(笑)

その時に何を書こうとしていたか自分でも分からなくなってしまうんですよね…

だから、結局、参考文献程度に自分のコラムを見て1から内容を考えるように書きました。

好評そうだったら、これ以外の過去のコラムもまとめていこうと思っているので、このnoteへのいいねやコメントを願いします!

また、「こういうことについて書いてほしい!」みたいな気軽なリクエストをいただければ、可能な範囲で書こうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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