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バイオダイナミック農法とオブジェクト指向存在論?


今朝から、『バイオダイナミック農法(ルドルフ・シュタイナー)』と『オブジェクト指向存在論』の二つが、エーテル体(生命体)という視点で結合しようとしていた。そんな探究の足跡noteです。


内在のつぶやき

 今日は、Object-Oriented Ontology(OOO: #オブジェクト指向存在論 )、エーテル体(生命体)、天体・地球と植物のリズム、 #ルドルフ・シュタイナー が提唱した #バイオダイナミック農法 が、頭と身体をぐるぐるする笑。

 “実在の物体(real objects)と感覚的な物体(sensual objects)とを隔てる存在論的な深淵”が、OOOの中心的な原理のひとつらしい。unification(一体化、統合)・differentiation(差異化)、essences(本質) ・appearances(出現)などのコトバとも、異なる文脈で再会できた。

 どうやら、「人間中心主義」的な探究は一旦脇に置いて、「モノゴト中心」の視点から世界を捉え直す方が良さそう。「ヒト」、「あはひ」、「モノ」、…のスペースを自在に往来し、これらの背景に突き抜けてみよう。


バイオダイナミック農法

 数年前に、バイオダイナミック農法で育った人参をいただいたことがある。人参という個性が際立っていると同時に調和を感じさせる生命感溢れる味わいだった。
人間もこうだと良いなぁと実感した当時の体験を思い出した。

『バイオダイナミック農法は、ルドルフ・シュタイナー(*1)が提唱した地球や生物のエネルギーの循環に沿ったサステナブルな農法です。化学肥料や農薬を使わず、太陽の動き、月の満ち欠けや、天体、地球と植物のリズムに合わせて作物を栽培します。』


ルドルフ・シュタイナー

 「神智学」、「人智学」は、僕自身の探究領域の言葉に強引に近づけるなら、「超越性」と「内在性」だろうか。どちらが優れているとか、どちらが正しいとか、どちらが美しいとか、ということは様々であればいいと思うのだけれど、「超越性」を特権化したり、それに依存したりするのは、この生命たちを軽んじているようで僕自身は好まない。

(wikiのシュタイナーさんのお顔が、白い空間に溶けてしまい、ごめんなさい)

何冊かはバーチャルな書庫に眠ってる。まだ僕には早いのだろう。「遺された黒板絵」を読んで(観て?)みようと思う。あ、僕は図書館で借ります。



ルドルフ・シュタイナーに接するには、「神智学」「人智学」という二つの用語がもつ領域と社会性をちょっとばかり知っておかなければならない。
 神智学はやたらに広い。古代の原始キリスト教神秘主義とともに始まっていて、神学・新プラトン主義・グノーシス・カバラ・ヨアキム主義そのほかがまるごと含まれることもある。しかし狭義の神智学はヘレーネ・ブラヴァツキー(しばしばマダム・ブラヴァツキーとよばれる)によって唱導されたスピリチュアリズムのことをさしていて、なかでも1875年にアメリカの農場でブラヴァツキーとオルコットによって設立された神智学協会をさすことが多い。
 ブラヴァツキーは1831年のロシアの生まれだが、やがてロシアを出奔して世界各地を放浪し、それぞれの地の神話や伝承や秘教を吸収していった。そこまでは過去の神秘主義者とたいして変わらないオカルト派だったのだが、しだいに英米中心のオカルティストとは異なるヴィジョンをもつようになっていった。「再生」を確信し、精神の根拠を物質的な実証性にもたないようになったのである。
 そのころ、多くのオカルティストは霊媒を信用していて、しきりに降霊術をおこなって、死者の言葉や霊魂がたてる音やエクトプラズム現象に関心を示していた。ブラヴァツキーはこれらに疑問をもち、いっさいの物的証拠とは無縁の霊魂の存在を確信するようになり、さらにユダヤ・キリスト教では否定されていた「再生」に関心を示した。この再生感覚はむしろ仏教思想に近いものだった。実際にもブラヴァツキーはインドに行ったか、もしくはその近くでのインド仏教体験をしたと推測されている。
 こうして神智学協会が設立されたのだが、その種火は小さなアマチュアリズムに発していたにもかかわらず、ブラヴァツキーが人種・宗教・身分をこえた神秘主義研究を訴えたためか、その影響は大きかった。この神智学協会の後継者ともくされたのがシュタイナーなのである。ついでに言っておくのだが、神智学協会の活動は1930年代には衰退したにもかかわらず、その波及は収まらず、その影響はたとえばカンディンスキー・モンドリアン・スクリャービンらの芸術活動へ、また日本にも飛び火して鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともした。日本の神智学協会運動は 三浦関造 の竜王会が継承しているというふれこみになっている。

https://1000ya.isis.ne.jp/0033.html



シュタイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえば ウル思想 ということである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みたのである。
 超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていた。ハイゼンベルグだってウルマテリア(原物質)を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それをひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。

https://1000ya.isis.ne.jp/0033.html


Object-Oriented Ontology
(OOO:オブジェクト指向存在論)

ちなみに、”C++やJavaに代表されるオブジェクト指向のコンピュータ言語とOOOの間には本質的なつながりはありません。”
『Object-Oriented Ontology 
A New Theory of Everything』Graham Harman
”モートンはカント哲学を脱人間化し、物質が時間・空間を表出し人間も共物質的に存在すると考えることで、人間の感覚をはるかに超えた地球環境の危機に対応する思想に辿り着こうとする。モートンにとっては、不可視のものを可視化する思想としてのObject-Oriented-Ontologyこそが、地球温暖化や放射能汚染のように宇宙、生態圏、科学技術や人間社会の様々な要素が複雑に絡み合い、人間の感覚だけでは最早知覚することができない「ハイパーオブジェクト」の時代に対応する哲学なのである。”


Jordi Vivaldi

ジョルディ・ヴィヴァルディはウィーン在住の作家、哲学者、建築理論家である
建築家としての博士号(IOUD、オーストリア)と、哲学者としての博士号(EGS、スイス)を取得。(スイスのEGSで博士号を取得したジョルディは、近刊の『Limit-Space: Limit-Space: Agency and Form in a Xenological World (Actar Publishers, 2021)を出版予定。研究分野は、20世紀および21世紀の実験的な建築、芸術、技術の理論、および様々な形態の投機的リアリズムと新唯物論です。現在の研究分野は、「限界」という概念と、それに関連する「有限性」、「決定」、「還元」などの用語を、哲学的および建築的な観点から中心に据えています。
ジョルディの哲学的な仕事は、スペキュラティブ・リアリズムの枠組みの中で限界の存在論を構築することに焦点を当てており、限界を差異的な同一性と自己言及的な差異の存在論的な領域として明確化している。また、建築の観点からは、複合的な形態のエージェンシーに関連する表記上の豊かさの空間として限界を利用することに焦点を当てている。
現在、バルセロナのIaaC、ロンドンのUCL Bartlett、インスブルックのIOUD、ブエノスアイレスのPROPURなど、いくつかの国際的な大学で理論の教授や研究者として活躍しています。建築雑誌『IaaC Bits』の編集長としてのキュレーションの仕事のほか、彼の仕事はいくつかの記事、エッセイ、講演に集約されています。また、『The Threefold Logic of Advanced Architecture』(Barcelona: Actar Publishers, 2020)という本の共著者でもある。

以下のWebサイトをDeepLにて翻訳。
https://www.jordivivaldi.com/about/


The Twofold Limit of Objects: Problematising Timothy Morton’s Rift in Light of Eugenio Trías’s Notion of Limit
Jordi Vivaldi

この論考にも豊かな示唆が含まれていそう。今日は、本のさわりだけ。

Abstract:
The ontological abyss that separates real objects from sensual objects is one of the central principles of Object-Oriented Ontology (OOO), which has its most explicit and profuse modulation in Timothy Morton’s notion of rift. This article argues that, despite succeeding in explaining the radical difference that inhabits every object, Morton’s rift fails to explain the object’s unification, rendering the overall theory inconsistent. An alternative approach that accounts simultaneously for disjunction and conjunction between essences and appearances can be found in Eugenio Trías’s philosophy of the limit, a term widely ignored in OOO despite its deeply non-relational conception of the reality of things. The article further argues that the reinterpretation of Trías’s twofold liminal approach in light of OOO successfully addresses the inconsistencies found in Morton’s rift, paving the way for a theory of limits within Harman’s ontological framework.





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