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境界も時空も歪み、おわりもはじまりも曖昧化した自己変容

#内在のつぶやき #超越のいざない


 自己変容は、単なる変化ではなく、個に閉じた心身症でもなく、システム的な変容であると仮置きしてみるとき、つまり、それぞれの象限に閉じた変化ではなく、このインテグラル理論で用いられる四つの象限から成るダイナミックなシステムの変容だと捉えて、さらに僕自身の経験と照らし合わせてみるとき、2つのプロセスは以下のようであったように思う。


 1つ目は、何処かの象限から綻びはじめ、象限間の相関性が薄まり、ダイナミズムが縮小し、システムの生命感や躍動感は失われ、ひとつの世界システムとして結束されていた要素が解放されバラバラになっていくプロセス。これはカオス(渾沌)への道のり。変動性(変化の波の高さ)、流動性(潮の流れ)が高まり、まるで無秩序な世界になってしまったのかと思うほどに、自分自身を世界に適応させることが困難になる。


 2つ目は、何処からか新たな秩序が出現し、これまでの要素が異なる形態で繋がりはじめ、新鮮な世界が組成されていくプロセス。これはコスモス(秩序)への道のり。きっと自己組織化のひとつなのだろう。物理的な環境も身心も何らかの秩序のなかで持続していることは理解できるのだけれど、まるで新たな世界に産み落とされたのではないかと勘違いするほどに、日常的な現象が新鮮に再現前する。コンビニの前の路肩が夕日に反射する輝きは、芸術作品のように映る。

 とはいえ、これらのパースペクティブは、機械論的でどこか味気ない。メタで客観的な枠組みに対するワクワク感は、現象を標本化しまうような違和感に変わり、その出逢いと感覚の変遷は探究の扉をひらいてくれた。

 今朝振り返っていたフレーズが想起させる世界の回廊に浸ると、二つのプロセスの基底となる境界も時空も歪み、おわりもはじまりさえも曖昧になる。

 ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。存在世界は、このようにして、一瞬一瞬に新しく現成していく。「一ー微塵中、見一切法界」(空中に舞うひとつ一つの極徴の塵のなかに、存在世界の全体を見る)と、『華厳経』に言われています。あらゆるものの生命が互いに融通しつつ脈動する壮麗な、あの華厳的世界像が、ここに拓けるのです。路傍に一輪の花開く時、天下は春爛漫。「華開世界起の時節、すなわち春到なり」(『正法眼蔵」「梅華」)という道元の言葉が憶い出されます。
 ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起するということは、絶対にあり得ない。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学は「縁起」といいます。「縁起」は、「性起」とならんで、華厳哲学の中枢的概念であります。

『コスモスとアンチコスモス』 井筒俊彦

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