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曖昧に全体性を志向しつづける日本人の意識構造

過日、「万物の歴史」ケンウィルバーの振り返りとその夜の夢を通して、ふたつのフレーズが生まれた。

と同時に、この個の内面に宿る『真実性(truthfulness)』は、顕在意識というより潜在意識(無意識)と親和性があるのではないか、その構造は普遍的ではなく言語や文化によって変動するのではないか、という探求心が芽生え、河合隼雄氏の『中空構造日本の深層』を手にとっていた。

今日は、この探求メモをnoteする。


”西洋人の場合は、意識が無意識と明確に区別された存在として、その中心に確立された自我を持っている。しかしながら、人間の心は意識も無意識も含めた全体としての中心、自己を無意識に持っており、それと自我がいかにかかわりを持つかが大切なことである、とユングは主張する。このことは、本書のはじめに、確立された自我意識がいかにして内界との結びつきを持ち、全体性を回復するか、と述べたのと同様のことである。ところで、日本人の場合は、意識と無意識の境界が鮮明でなく、意識も中心としての自我によって統合されてはいない。西洋人の目から見れば、それはしばしば日本人の主体性の無さや無責任として非難される。しかし、日本人はむしろ、心の全体としての自己の存在に西洋人よりはよく気づいており、その意識は無意識内の一点、自己への収斂される形態を持っているのではなかろうか。つまり、意識と無意識の境界も不鮮明なままで、漠然とした全体性を志向しているのである。”
〜昔話の心理学的研究 p.97

『中空構造日本の深層』 河合隼雄


心の研究ノートより


”欧米人は「自我」というものをきわめて実体的、固定的に捉えているのに対して、日本人はこれを全く非実体的、流動的に感じとっている、ということが言えるだろう。欧米人にとっては、「自我」とはまさに具体的、実在的に「存在」するものであるのに対して、日本人が「わたくし」とか「自分」とか言う場合には、それはむしろ抽象的なもの、「事実」の蔭にかくれた非実在的なもの、という感じが強い。欧米人が人格界と自然界とをはっきりと区別していて、「我」という場合にも、これを「非我」から截然ときわだたせているのに反して、日本における「自分」の「自」は「自然」の「自」でもある。自分自身の根底にも、自然の根底にも、そこに何か「おのずから」に生起する根源的な力のようなものがあって、その「分けまえ」として「自分」がある、という感じが強い。事柄のほうが先に起きて、その事柄にしたがって「自分」ということがはっきりしてくる、という構造になっている。”
『自覚の精神病理』木村敏

心の研究ノートより


 この探求において、僕自身の関心は、二つの方向にひらいている。
ひとつは、西洋の発達心理学が、河合隼雄氏の云う『東洋(日本人)の意識構造』のパターンをスコープに入れているのかどうか、という点。そして、もうひとつは、『東洋(日本人)意識構造』の可能性。

 もしかすると、日本人の意識構造を有する私たちは、既に、常に、コスモスに調律されているのかもしれない…

『あなたのアイデンティティは、実は〈すべて〉であり、その流れの一部ではなく、あなたがその流れそのものであり、〈すべて〉はまわりではなく、あなたの内で展開していく。星々はもはや外でではなく、中で輝く。超新星はあなたの心のなかで出現し、太陽はあなたの気づきのなかで輝く。なぜならあなたはすべてを超え、すべてを包含しているからです。』
〜 七.コスモスへの調律(Attuned to the Kosmos)p.170

『万物の歴史』ケンウィルバー

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