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豊楽殿再建へ!…京都にあった平城宮跡・内野の歴史

さて、平城宮跡は奈良にある1300年前の都の跡地ですが、誤解を恐れず言えば、復元された大極殿や朱雀門を除けば草原や荒地という感じではないですかね。しかし、ここを開発せずに保全することには大義があると誰もが認めるところでしょう。そんな奈良の都とは対照的に、時代の中で都の跡を開発していったのが京都です。平安京の大内裏跡(平安宮跡)は今や完全に街の中に埋もれていて、その地に立っても往時の雰囲気は微塵も感じられません。

鳴くよウグイス平安京…鳩もおらんわ

こういうところを見るに、京都は千年の都、奈良は千年前の都、と言うことが出来るでしょう。京都は名実共に千年間我が国の首都だった訳ですが、その歴史は破壊と再生の繰り返しで、特に古代のものはほぼ完全に失われています。一方の奈良は千年前の世界的な史跡が現存している反面、数百年に渡って発展から取り残され田舎然としたところがあります。

大内裏跡にある京都市平安京創生館(ちょっとした資料館)には、見学者に解説してくれるボランティアのお爺さんがいます。どこから来たのか問われたので奈良から来たと言うと、奈良には広くて立派な大極殿があっていいですねと言われました。一見褒められていても、相手は京都人ですから、額面通りに受け取ってはいけません。「お!これはお宅のお子さんピアノ上手ですねと褒めることで遠回しにピアノの音害を伝えるやつやな!即ち翁は奈良は土地余りの田舎と言いたいに違いない!全く同感であります!」と思っていたら、京都にもああいうのを建てるべきなんやけどねえ…と苦虫を噛み潰したように続けたのが印象的でした。

何も京都に大極殿を建てたいのはこのお爺さんの個人的願望ではありません。明治以降、京都は古の王朝文化を伝える建物を造ろうともがき続けています。それもこれも大内裏跡が市街化されてしまったせいで苦労を強いられているわけで、奈良の平城宮跡のように、宮跡が農地だったら容易く用地を確保できて、栄光の大内裏を再建出来たのに…。

ここで、今回の題名の伏線その1を華麗に回収したいと思います。実は、大内裏跡は、かなり後世まで開発されることなく、荒地として保全されていたのです。まさに現在の平城宮跡と瓜二つの光景が、京都の街中に広がっておりました。実際に平安時代まで遡って、大内裏の歴史を振り返って参りましょう。

粉雪舞い散る平城宮跡。往年の内野を彷彿とさせる

まず大内裏の存在意義とはなんでしょうか。色々あるとは思いますが、簡単に解説すれば以下の通りです。飛鳥、奈良、京都と都が移っていく過程で、行政を担うのが豪族から天皇直属の官僚へと変化していきました。つまり中央集権的な律令国家の形を整えていったわけですね。なぜ律令国家への転換が必要かと言えば、外国になめられないようにするためです(意訳)。現代風に言えば、例えば北朝鮮にも「選挙制度」はありますよね。それと同じで、まともな国なら律令制度あるよね?ちゃんと皇帝が国中の豪族を官僚としてまとめてるよね?的なのが当時の東アジアでした。白村江の戦いで倭国が律令国家たる唐に惨敗を喫すると、いよいよ律令国家にならないとヤバい、という風になりました。アヘン戦争からの明治維新みたいなノリですね。

という訳で、大内裏はまず国内の豪族に対して天皇の権威を示し、そして唐、新羅、渤海など外国から来る使者に対して日本が中央集権制の素晴らしい文明国だと知らしめるため、とても立派に造られるようになりました。長年に渡って色々と試行錯誤した末に、その完成形として生まれたのが平安京大内裏なのです。

そして悲しいかな、完成したところで大内裏は不要になります。唐と新羅は奈良時代限りで日本への使者の派遣をやめてしまい、日本側も平安初期で遣唐使の派遣を取りやめました。平安時代に日本と外交関係を結んでいたのは渤海ぐらいです。

というわけで、このままでは唐から侵略されるかもしれないと必死になって作った律令国家の諸制度は、どんどんなし崩しになっていきます。豪族から官僚主体にしたはずの政治の実権は、摂関家を中心とする貴族へ逆戻り。場所的にも、大内裏の官衙から貴族の邸宅へと移行していきます。すると、律令制が無かった飛鳥時代以前、天皇の代替わりごとに宮が移っていたのと似たような感じで、大内裏が火事で焼ける度に天皇の妃の実家などを「里内裏」として臨時の御所にするようになりました。やがて大内裏や朱雀大路は即位礼や大嘗祭で使う時だけ補修される感じになり、遂に1177年の火事で大極殿の再建が、1227年の火事で内裏の再建が止まりました。これ以降は、元々里内裏だった閑院が正式な御所とされ、その後、正式な御所は二条富小路殿や土御門東洞院殿(現在の京都御所)へと推移していくことになり、大内裏の内裏へ戻ることはありませんでした。

広大な京都御苑

鎌倉時代、そんな感じで一部の建物を残して野原と化した大内裏は「内野」と呼ばれるようになりました。野原とは言えども、そこは天皇の権威を示す聖域であり、周囲を築地塀で囲われていたそうです。13世紀後半に再建が止まるまでは朱雀門もありました。うん、その特徴は完全に平城宮跡やろ。そんなもん平城宮跡で決まりよ〜。他にオカンなんか言ってなかった?オカンによるとな、鎌倉時代の即位礼が太政官庁で、大嘗祭が朝堂院跡で行われるなどしていたらしいねん。お〜、ほな平城宮跡と違うか。ちなみにオトンはな、その特徴は大阪城ちゃうかって言ってたわ…ミルクボーイ風になってしまいました。誰かオトンを助けてあげてくれ。

ちなみに、天皇親政、平安王朝の再建を志していた後醍醐天皇は、当然のように大内裏再建を目指しました。これが恐らく大内裏再建に向けた最後の取り組みだろうと思いますが、あまりにも武家を軽んじてしまったため失敗に終わったことは周知の通りです。残念…。

わかりやすい

建武中興を機に日本は室町時代へ入るわけですが、この頃の内野は、太政官、神祇官、真言院、そして隣接する神泉苑が機能を残しており、朝堂院の基壇なども残っていたようです。よくある鎌倉時代や室町時代の誤解として、ここからは武家・幕府の時代だ!と思っている人も多いかと思いますが、実際には統治機構として朝廷や公家も大きな役割を担っていました。3代将軍義満の時に起きた「内野合戦」こと明徳の乱も乗り切り、かろうじて残っていた官衙ですが、それさえも無に帰してしまったのが、かの有名な応仁の乱です。実に1日で終わった明徳の乱に対して応仁の乱は15年。これは大変ですね〜(他人事)。近年では応仁の乱で京都全焼は大袈裟だとする研究も増えていますが、内野の残存官衙はここで途絶えたようです。それまで太政官庁で行われていた即位礼は、昭和まで京都御所紫宸殿で行われることになります。結局のところ、応仁の乱で幕府のみならず朝廷までもボロボロになってしまったことが、その後の乱世に繋がっていくわけですね。

戦国時代になっても、内野は大きな空閑地として開発されないまま残りました。京都の市街地が応仁の乱で縮小し、戦争に備えて市街地が総構えで囲われたりしたので、この時代は開発自体が低調だったようですが、そんな内野を完全に潰してしまったのが天下を取った豊臣秀吉と徳川家康です。秀吉は、内野の北西部に聚楽第を建設します。丁度内裏などがあった方面で、如何にも俺が治天の君だと言いたげです。聚楽第の画期的な点として、大内裏が再建されなくなった後の内野において、初めて建物を建てる本格的な開発を行ったという点が挙げられるでしょう。一応、秀吉以前にも北野天満宮が土地を耕して荘園化したりはしたようですが、このような開発は初めてです。

秀吉は御土居を建設して洛中の範囲を実質的に定めたわけですから、平安京造営以来の京都で前代未聞の都市改造を行ったと言えます。秀吉の没後、天下を取った家康が建設したのが現在も残る二条城です。内野との重なりは聚楽第ほどではありませんが、神祇官があった場所などが二条城の堀に取り込まれています。二条城もまた如何にも俺が治天の君だと言いたげですね。なんといっても方位を正しく測ってわざわざ平安京の都市軸から城割りをずらすという示威行為。これくらいの度胸が無ければ天下人にはなれないのですね。江戸時代、聚楽第は破却され、聚楽第跡地から御土居までの間は概ね市街化されてしまいます。ここで南側のごく一部を除いて、内野の土地が開発されてしまった訳ですね。さらば京都の平城宮跡…。

だがしかし!諦めるのはまだ早い!長い江戸時代が終わり、明治維新の変革の波が京都にも押し寄せてきます。実は、この時に内野復活の大きな好機がありました。まずは、江戸時代の内野の土地利用について見てみましょう。

1868年の内野周辺

ご覧の通り、内野の北半分は、聚楽第跡地も含めて市街地に飲み込まれてしまっています。一方の南半分も、開発が進んでいる様子が見て取れます。しかし、内野の南北では土地利用に大きな違いがあります。即ち、北側の土地が細分化されているのに対して、南側の土地が広大な武家屋敷で占められている点です。

試みに東京などを見ると、現在の東京でまとまった土地があるのは、9割方武家屋敷の跡地が分割されずに今日まで継承されたものとなっております。京都の内野においても、東京と同様に土地が細分化されないまま継承されることで、容易に内野を保全することが出来るかもしれなかったのです。では、明治以降の内野の地図を見ていきましょう!

1889年の内野周辺
1902年の内野周辺
1928年の内野周辺
1929年の内野周辺

広大な千本屋敷の跡地は、京都刑務所となり、刑務所が移転してからは大礼記念京都大博覧会の西会場となりました。これは容易く土地を確保できてよろしいと思った矢先…

1934年の内野周辺。もはや空閑地は見当たらない

速攻で宅地化されました!なんでやねん!

古地図を見ていくと、博覧会終了後の同地は衛生試験所と職業紹介所として利用されていたようですが、広大な土地を持て余し、残りの土地は間も無く区画整理されて宅地になったようです。なんとなく市街化による史跡の破壊と聞けば戦後の高度経済成長期を思い浮かべますが、流石は三都の一角たる京都、戦前から住宅需要が高まっていたのですね。

ちなみに大礼記念京都大博覧会西会場の様子がこちら
千本丸太町交差点東南に面する博覧会会場
二条城の端まで全て会場だった

というか、土地利用の推移を見ていると、史跡として内野を保全しようという気概が全く感じられず、年を下るごとに開発が進んでいく様が見て取れます。こうも大内裏跡たる内野の保全が軽視される要因としては、やはり平安神宮に寄るところが大きいでしょう。岡崎公園の方に立派な神宮ができてしまったことで京都の人々は大変満足して、内野を顧みることがなくなったのです。少し前にボランティアのお爺さんの小話を紹介しましたが、古の王朝文化を伝える殿堂を建設せんとの強い想いを以て建てられたのが平安神宮です。平安神宮は、第四回内国勧業博覧会の一環として、平安京大極殿と応天門を5/8の大きさで再現したもので、実際に、戦前の新聞記事などを幾つか見ていくと、平安神宮のことを「大極殿」と呼んでいる例が数多ありました。さすがに観光案内などではきちんと本物の方が「大極殿跡」とされていますが、このような風潮では内野復活なんて考えられないでしょうね。

平安神宮は平安京を造った桓武天皇その人を祀る非常に立派な神社ですが、やはり平安京の域外に造ってしまったということで立地に難があり、加えて規模も実際の大極殿と全然違うという欠点があることは否めません。建設当時も平安神宮はきちんと大内裏跡に建てるべきという意見があったそうなのですが、明治時代に農地だった岡崎周辺は容易く用地が確保できたために博覧会会場となり、博覧会の目玉たる神宮が博覧会会場から離れていてはまずいからと現在地に建てられた経緯があります。

時は下って21世紀。文化や観光といった目的のみならず、建設技術の継承という課題もあるので、やっぱり何らかの建物を再建すべきという意見が根強くありました。そこで、流石に大通りと丸被りしている大極殿は無理でも、それ以外ならいけるかも、ということで京都財界や文化人有志が羅城門を再建する運動をやっております。是非とも頑張って欲しいところですが、今のところ計画に進展はないようです。かつては辺境だった羅城門周辺も、今や宅地開発されて市街化しています。その影響もあって平安京羅城門跡は発掘もままならず、未だに遺構が発見されていません。跡地から少し離れたところに建てるという案もあるようですが、それでもある程度の用地を一から確保しなければなりませんから、結局大変です。実現まで少なくとも数十年は要するでしょう。

羅城門も厳しいとなれば、個人的には豊楽殿に賭けてみるというのもありだと思います。豊楽殿は大極殿の西隣にあった饗宴施設で、大内裏において大極殿に次いで立派な建物です。平城京第二次大極殿を移設して豊楽殿としたという説もある(というか確実視されている)ので、大極殿に引けを取らない威容だったとも考えられますが、京都市がこれの跡地を頑張って買収しています。なんでも、後世に開発され尽くした大内裏跡で、基壇の高まりが唯一残っているのが豊楽殿なんだそうです。このまま頑張って買収を続けて、羅城門再建運動の人たちをこっちに引っ張ってくれば、豊楽殿再建も視野に入るのではないでしょうか。

北西から豊楽殿跡を望む
北東から望む
南から望む
思いの外広い買収範囲。こういう高まりが基壇の跡なのか?

2023年時点で、ネット上で豊楽殿再建について言及しているのは多分私が唯一だと思いますが、案外京都市は豊楽殿の整備について腹案を持っているかもしれません。実は、京都市が作成した豊楽院跡における史跡公園仮整備基本計画云々、というPDFがあります。この中で、将来的に豊楽院を史跡公園として本格整備しますよ、ということが記載されています。

検索してもこのPDFしか出てきません
将来的に本格整備があるようだ

これは?もしかすると?本格整備の段階で、豊楽殿の再建が長期目標として挙がってくるかもしれません。大極殿再建を実現させた平城宮跡に続けと、飛鳥宮跡大安殿と難波宮跡大極殿の復元構想があることが知られていますが、平安宮跡豊楽殿もここに加わってくる可能性がありますね。土地収容の面では飛鳥や難波に遅れをとっていますが、資金面では頼もしい羅城門再建チームの皆様がいます。栄光の大内裏再建へ、夢が広がりますね!

というわけで、大まかな解説ではありましたが、以上が京都版平城宮跡こと内野の歴史と、豊楽殿再建の可能性についてでありました。おしまい

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