塩見 鮮一郎

1938年岡山県生。作家。河出書房新社編集部を経て著述業。主な著書に『浅草弾左衛門』『…

塩見 鮮一郎

1938年岡山県生。作家。河出書房新社編集部を経て著述業。主な著書に『浅草弾左衛門』『車善七』『江戸東京を歩く 宿場』『弾左衛門の謎』『異形にされた人たち』『乞胸 江戸の辻芸人』『吉原という異界』等。 フォトブログ https://siosen.blog.ss-blog.jp/

最近の記事

城下町消失

 よく考えもしないで、書くほどのことはないだろうとしてきました。それがそうではないようだと、老いも老いてから、ふと感じました。  その書くほどのない時間とは、一九四五年、昭和二十年をさかいとします。そのとき、わたしは七歳、小学校二年生です。六月下旬、米軍の空襲で岡山市街は一夜にして灰燼(かいじん)に帰しました。東山から一望した焼け跡にはまだ火がくすぶり、ときおり炎が燃えあがるのが朝日ら照らされます。  大火(たいか)に巻き上げられた水蒸気は夜空を黒雲でおおい、すぐに驟雨(

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    • 新鮮魚菜

       ぼけて、もう正否を判断する能力がうすれました。天気と世間とに距離を取り、外部からの刺激を遮断します。出かける用がないのに、なんで雨具のことを心配しますか。儲ける気がなければ、景気や株価、社会のトレンドも関係ありません。  我慢して他人の小説につきあわなくていい。エラリー・クインを真似た刑事ものの愚作を読む必要はないのです。社会が飾りたてる商品の動向を無視すれば、わたしはわたしの好きな作業に一日どっぷり浸(つ)かっていられます。  日々の買い物をやめることはできませんが、

      • セピアの東京

         二〇〇九年の東日本大震災や原発事故による甚大な被害については、老いたいまでは筆がすすみません。尊大な嘘を羅列した政治家、コロナ禍に際してちいさなマスクを配った御仁を、近親者に犠牲を受けた方はくやしいでしょうが、笑話(しょうわ)にもならない人物として認識しています。  また、既成事実だけを残したかったのですか、世界的な祭典、「災天」のほうがいいですか、サイテンを強行した権力者のすべてがきらいます。  浅薄な時間がつづいたにしても、いま二十前後の若者はこの空間を生きるしかな

        • すぐそばの戦中派

           さきの大戦、といっても、とおいむかしのことになりました。敗戦の夏がちかづくと、特攻隊など当時の話がむしかえされ、テレビや活字媒体がすこしのあいだにぎわいます。忌日(きにち)のように習慣化した行事を、ここで批判したいのではありません。  ふしぎなことに、戦後十五年、一九六〇年に見えていた戦争の記憶は、いまよりずっと浅はかなものでした。「反戦」の叫びも、心情的には必死だったとしても、できあがった戦後の政治コースから、はみ出るものではありません。おさない青年だから半端な理解な

        城下町消失

          つづけてほしい

           なにか腑(ふ)に落ちません。  慣れないことにつきあった苦い反省があります。日本一まずしい組織にうまく利用されたのでしょうか。  アトリエを埋めた青年に、本の表題を並べたところで読む人がどれほどいたでしょう。場の雰囲気にあおられて、かっこよくしゃべっているのです。もちろん、集まった人がなにを感じたかは、人によってちがいます。藁(わら)にもすがりつきたい切実な境遇に置かれている人がいたかも知れません。でも、袖(そで)もすりあってないし、相手の名も覚えてないのですから、うま

          つづけてほしい

          学校でない学校

           びっくりするじゃないですか。  三十すぎたばかりの先生が会場に着くと、四十名ほどの青年男女がつめかけています。かれらはどこかの集団から来たのではなく、ばらばらと参集したのです。初見の人と椅子にならべてすわっているので私語はなく、ただ先生を待っていたのです。  わたしは活字本からおおくを知り、対面した授業から学んだことがすくない人間です。戦後の日本で、「教える・学ぶ」の関係が充実してきたのは知っていますが、偶然、孔子に出会える弟子などいない。落語をやりたいのなら師匠も必要

          学校でない学校

          となりの女性(続)

           一九七〇年代、松尾知子さんは神に召されます。  その十年ほどまえです。見習いを終えた青年は、「世界の思想」というおおきな全集を立ち上げる部署に移され、女性の隣席から離陸します。全集第一回配本のマルクス『資本論』(四冊)を担当し、無事に発売されます。その後、外国文学のチームに移り、いく冊かを企画して刊行、終わるとドイツへ出張を命じられました。  半年後に帰国してすぐ、いまでは忘れられている渡部義通(わたなべよしみち)という歴史家を、松尾さんに紹介されます。当時七十歳前後の

          となりの女性(続)

          となりの女性

           若い青年がいます。  まだ子どもみたいです。とりたてて個性があるわけではないし、勤勉だということもない。みずからつよく望んだわけでもないのに、昭和の出版社に勤務していました。まだ日も浅く見習いです。校正部に所属しているのですが、あいた席がないので、本隊からとおく離れて制作部にひとりすわっています。  一階には営業と宣伝のセクションがあって、二階は社長室をのぞけば、編集と校正と制作部がならぶ大部屋(おおべや)です。そこに四、五十人がいるので悠々とは言えません。編集部は日本

          となりの女性

          河原書店

          てんまや、の話を終えて、岡山駅から新幹線か夜行特急に乗るつもりでした。悩みは、いつの時代の東京にもどれば、もっとおもしろいだろうか、昭和のオリンピックのころですか、オームという新興宗教が敵対する人をポアした世紀末ですか、それともコロナウイルスが猖獗(しょうけつ)をきわめたころか。どこへ帰京するかで、わたしのいる土地がちがいます。 ただ天満屋について記していたとき、西どなりにあった書店を思い出しました。前項にちらっと書きましたが、細謹社(さいきんしゃ)といいます。市内随一の

          天満屋百貨店

          てんまや、です。 大阪でも京都でも、まして東京では、だれも耳にしたことのないデパートです。三勲小学校よりは広く知られていますが、日本各地の「鄙(ひな)」に散在する百貨店のひとつです。またしても、わたしの内部のイメージと、読者との差が天文学的な数値になります。でも懲(こ)りずに、またやってみます。ぜひぜひ、卑小なわたしの懸命な努力を見放さないでください。 二〇一八年の春、下北(しもきた)半島の大間(おおま)から連絡船に乗り、津軽海峡を渡って函館に入りました。青函(せいかん)連

          天満屋百貨店

          三勲小学校

          「さんくんしょうがっこう」です。 この言葉に接するみなさんと、書き手のわたしのあいだには、三万光年ものへだたりがあります。そんなテーマを取りあげてみたのは、ことばの霊力(れいりょく)により、へだたりをせめて百年ほどにできないだろうか、というわけです。ご寛容に、つづけて目を通してくだきたい。 「三勲」とは、なんでしょう。儒者が教える格言かと、ずっと想像していました。「みっつの人生訓」のようなものです。わたしの認識と、みなさんがぼんやりと判断する内容と、それほど、ちがいはないで

          三勲小学校

          神話の島

          それらの島の名はだれでも知っていますが、でも、いつのころからそう呼ばれていたのか、時代を正確に指摘できません。 日本の歴史はじつにみじかく、中国の百分の一もないといえば、すこしオーバーですね。でも、あの「友あり遠方よりきたる」の孔子は、二五〇〇年もむかしに生きていたのです。そのころ、わが列島にも住民はいましたが、歌も落書きもこんにちに伝わっていません。 日本でいちばん古い本で、いまも書店に並べられているのは、『古事記』です。奈良時代初頭にできたのですが、中国の文字(漢字)

          不忍池(続)

           江戸末期では、不忍池をあふれた水は広小路(ひろこうじ)のほうに流れました。お山の入口には黒い門がありますが、その前を横切る川は、「忍川(しのぶがわ)」といい、三枚の橋が架かっていました。中央は将軍家が上野の東照宮に参詣するときに渡ります。この流れが三味線堀にたまり、鳥越川になるのです。  現在、不忍池(しのばずのいけ)から流れ出す川はすべて埋めつくされました。長雨がふっても満杯にならないのでしょうか。だれも関心をいだかないようですが、知りたくなれば、上野公園事務所か都庁に

          不忍池(続)

          不忍池

           よく知られた池です。  よく知られた話から始めますが、不忍池(しのばずのいけ)は琵琶湖に擬(ぎ)せられます。大きさは比較になりませんが、そのように「見立て」るのです。箱庭です。琵琶湖には「竹生島(ちくぶしま)」があります。観光船から降り立つと、すぐに寺と神社の境内にいるような小島です。竹林、松、杉などが島をおおっています。土産物屋はあっても、住民はいません。 不忍池が琵琶湖なら竹生島もほしい。見立てた僧侶はそう思ったのです。島をつくらせ、そこに弁財天(べんざいてん)をまつ

          井の頭の池

           公園の中心は池です。池には橋がかかっていて、七井橋(なないばし)と言います。由緒(ゆいしょ)がありそうですが、戦後の命名です。 ただ七井とは、ここに七つの湧水池(ゆうすいち)があったころの名づけです。飲料水をくみにきた役人が、一、二、三と数えてお城に報告し、七つの井戸という名になりました。わかりやすいのが、江戸文化の特徴です。  七井橋の真ん中に立って、周囲を見まわします。ひろい池の中心点にいます。池をめぐる樹木の背後はたかい丘です。三八〇度、ぐるりを取りまく崖です。そう

          井の頭の池