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天満屋百貨店


てんまや、です。
大阪でも京都でも、まして東京では、だれも耳にしたことのないデパートです。三勲小学校よりは広く知られていますが、日本各地の「鄙(ひな)」に散在する百貨店のひとつです。またしても、わたしの内部のイメージと、読者との差が天文学的な数値になります。でも懲(こ)りずに、またやってみます。ぜひぜひ、卑小なわたしの懸命な努力を見放さないでください。

二〇一八年の春、下北(しもきた)半島の大間(おおま)から連絡船に乗り、津軽海峡を渡って函館に入りました。青函(せいかん)連絡船に乗り遅れたことへの、ささやかな類似体験のこころみです。函館駅も変わり、何十年ぶりですか、広場もかつての雑駁(ざっぱく)な雰囲気が消えて、外資系のホテルがならびます。でも、すぐそばの広い十字路の角(かど)には、棒二森屋(ぼうにもりや)の赤っぽいレンガ色のしっかりしたビルが見えています。建物はむかしのままでも、一九九四年にかつてのオーナーは去り、時代が一新されたことをネットで知ります。

函館に生まれ、ここで成長した青年少女には「ぼうにもりや」という、すこし変わった言いまわしが、どれほどなつかしくひびくのかと想像します。市内でいちばんモダンな場所だったはずです。成人して大都市で就職すれば、そのような思い出を語るのは、すこしばかり照れくさい。父や母につれられて駅前のデパートの最上階で、お子様ランチを食べた記憶など、それがうれしかっただけ、都会で知り合った同僚には話しにくい。

老年をむかえたわたしは、函館駅の広場にいながら、遠く離れた岡山市のデパートのことを思い出していました。「ぼうにもりや」という音に代わるものが、「てんまや」という音(おん)でした。主題を早く知らせたほうがいいでしょう、今回のテーマは、ひとつの都市と、そこにある百貨店の因縁の物語です。

生まれた街にあったのが「てんまや」ですが、すこし遠まわりして、少年時の記憶から始めたいと思います。破壊されてぼろぼろになった建物の記憶からです。第二次大戦の終わりには、情無用の「じゅうたん爆撃」を、米空軍は決行します。

七歳のわたしは街の東に住んでいたので、ちかくの丘へ逃げました。とてもみじかい時間だったと思いますが、深夜すぎに家を飛び出し、それから空爆機の音が消えるまで、ざっと三、四時間は経過していたでしょう。火を吐きながら倒壊する家屋や、路傍に倒れたままの人影がつづく通りを裸足(はだし)で走ります。爆音が近づいてくると、まわりの大人(おとな)が「隠れろ」と怒鳴ります。言われるまま反射的に、道路わきのドブに飛びこみました。大人には入れない幅の溝(どぶ)でしたが、痩せた少年には充分なひろさです。

丘の防空壕(ぼうくうごう)で夜明けを待ち、母にも再会でき、ならんで市内を眺めたのです。まったくの野原でした。「焼け野原」という表現は名言です。昨夕まで民家が密集していた場所が、どこまでも広がる赤黒い「焼け跡の原っぱ」になったのです。まん中を川が一条、白くながれ、そのむこうに天満屋が見えました。五階か六階のコンクリートの建物の外壁は黒ずみ、窓は視力をうしなった眼窩(がんか)のようです。母が勤めていた洋品店は、道をはさんだ向かい側ですから、灰燼に帰しているにちがいありません。

十年後、天満屋でエスカレーターという動く階段に初めて乗ったのですから、復興は早かったといえます。のぼったり、くだったり。当時、地方都市での高校生の遊びはそんなことしかないのです。エレベーターガールはがんばり屋の女性ですが、同世代の男性がかたまって乗ってくると、それなりに緊張したそうです。なんと二〇一二年、「岡山の天満屋」には、まだエレベーターに案内人がいるという報道がワイドショーでありました。それから十年、いまはどうでしょう。

デパートのある「表町(おもてまち)」にはよく行きましたが、細謹社(さいきんしゃ)という本屋とレコード店、急速に流行(はや)った喫茶店ぐらいです。天満屋がとくに意識にのぼったのは、卒業する先輩から、「天満屋の子の家庭教師をやる気はないか」と語りかけられたときです。すこし迷いましたが、家から自転車で二十分とかからない。ありがたく引き受けて、伊原木(いばらぎ)家に一年とすこしは通ったように思います。

新築なったばかりの屋敷は、戦後十数年のころですが、豪壮では市内で一、二か、そんなところです。右に庭が望める広い廊下を行くと、いくつかの座敷がならんでいて、そのひとつで小学生の男子に、掛け算・割り算を教えました。かれの名を忘れていたのでネットですこしだけ調べましたが、分明ではありません。天満屋の社長になった時期があるようにも聞きました。その子(その方)より数歳年上の男の子にもなんどか会いましましたが、かれがいまの県知事かどうか、これもよくわかりません。

話の主題は、かれらのことではなく、その母親です。たまたま料理を食べにきて、すっかり気にいったのか、なんどもくるようになり、わたしも出会えば挨拶しました。「えっ」と、おばさんはおどろいて、「うちの家庭教師?」と言い、母にむかって、「すみませんね。なにも知らないで、つまらない食事を出して」と恐縮しました。当時はアルバイトの学生に、夕食を提供するのがならいでした。


天満屋のおばさんはいつしか、わが家のタニマチになってしまい、市長から代議士、警察署長から税務署長、教育委員長まて、地方都市の自民党のボスがやってくるようになりました。客筋の感想を母はほとんど口にしなかったのですが、たまりかねたことがあったのか、「鮮、いちばん無作法なお客様は、学校の先生よ」ともらしました。わたしも無作法な人間ですから、だまってうなずいていました。『黄色い国の脱出口』を書いていたとき、うちの座敷では地方都市を牛耳る連中が得意満面の表情で酒杯をかわしていたのです。

(母は料理が好きでしたが、それで生計をたてるつもりはなかったと思います。わたしが上京して残され、一日十人前後の集まりなら、ということではじめ、謝礼をいただいたようです。天満屋夫人のサポートもあって、しだいに本業の様相を呈してきましたが、人をやとったりする気はありません。もし、わたしが上京しないで板前になっていれば、なにかとおもしろい展開になったでしょう。いまでは、そうすればよかったと思います)。

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