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Moe――報われない僕らの恋の記録〔10〕

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◀前回

▶20XX/06/05(7)

 川を右手に見ながら土手道を走ると、じきに橋が見えてくる。トウカの家はさらに上流にあったが、ユウタの家は橋を渡った対岸の住宅地。

「トウカ、どこまで乗ってく?」

「止めて。ここでいい」

「えっ?」

 ユウタが慌ててブレーキをかけると、ちょうど桜の下に自転車は止まった。体に巻きついていたトウカの手が離れ、ユウタの背を風がなでる。

「ここでいいのか?」

「うん」

 トウカは自転車のカゴから鞄を取って肩にかけた。ユウタはふと思い立ち、桜の木に自転車を寄せて鍵をかける。

「ユウタ、どっか行くの?」

「ちょっと土手をブラブラするだけ。じゃあな」  

 トウカに背を向け、ユウタはいつものように土手を下りていった。砂利道は橋の方に向かって斜めに続き、ずっと下で川べりの遊歩道に出るようになっている。

 草の擦れあう音にユウタはモエの髪を思い出した。立ち止まって目を閉じると草の香りで肺が満たされ、車の排気音やどこかの工事の音、鳥のさえずりが聞こえてくる。しばらくすると背後から足音が近づいてきて、振り返るとトウカが立っていた。彼女は鞄の持ち手を握りしめ、唇を固く引き結んでいる。

「トウカ、用事があったんじゃないの?」

「ユウタに、用事」

「俺に?」

 ユウタを追い越し、トウカは大股で砂利道を下っていった。三本線の入ったスニーカーは一年の頃からずっと変わらない。ユウタの三歩先にトウカの背中があり、その背中はユウタを拒絶するように先へ先へと進んでいく。川べりの道を上流方向へ向かい、橋で日差しが遮られると、唐突にトウカは足を止めた。

「おっと」

 慌てて立ち止まったユウタに、トウカは挑むような眼差しを向けてくる。

「屋上で抱き合ってたの、誰?」

「だから、俺じゃないって」

「じゃあ、つきあっちゃお」

「え?」

 トウカはユウタのシャツを掴んで引き寄せ、強引に唇を重ねた。

 ユウタの頭は「なぜ」で埋め尽くされ、宙ぶらりんになっていた手でトウカの背に触れ、背中、髪、腕、手首、そしてシャツを掴んだ指先へとたどり着く。ぬくもりと湿り気と、汗と、花のような匂い。この感覚がなくなってもトウカの存在を感じられるのか――ユウタはそんなことを考えた。

『接触実験』

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ユウタはトウカの体を引き離した。視線がぶつかり、目をそらすと急に心臓が騒ぎはじめる。

 ――俺はゲームのモブキャラで、システムに従って動いているだけだ。

 気持ちを静めようとそんなふうに考えても、すべてが生々しかった。この世界の現実感が増し、反対にモエの存在が薄らいでいく。この先ずっとモエに会えなかったら――そう考えると、本能がトウカを求めた。

 しかし、ユウタがトウカを抱き寄せようとすると彼女は拒むように身を固くする。

「ユウタごめん、冗談。さっき言ったこと忘れて」

 ユウタはうんざりし、放り出すように手を離した。

「勘弁してよ。冗談でキスするとか意味わかんない」

 日が傾いて陽光が橋の下に差し込み、トウカはまぶしそうに目を細める。

「……キスするまでは、そのつもりだったの」

「そのつもりって?」

「だから、ユウタと。でも、キスしたら、なんでセンセじゃないんだろうって」

 トウカの目から涙がこぼれた。

「トウカ、高波に告白したのか?」

「恋人がいるんだって」

「恋人がいるって、高波が自分で言ったの? いつ?」

「お昼。数学の授業の前にみんなでセンセのとこに行ったの。その時、サプライズでプロポーズしたいけど何かいいアイデアないかって聞かれたんだ。センセの恋人、入院してるみたいで、早く結婚して近くで支えてあげたいんだって」

 ユウタは自分が感じている同情がトウカへのものなのか高波へのものなのかわからなくなりひどく虚しい気分になった。

「けっこうマジだったんだ、トウカ」

「そんなつもりなかったんだけど、なんか自分でも意外」

 ユウタは泣き笑いのトウカを抱きしめ、彼女は抵抗することなく腕の中でしゃくりあげた。

「トウカは諦めるの?」

「他に、どうしろっていうの?」

 トウカの恋愛が成就する可能性はない。先生と生徒だからとか、高波に婚約者がいるとか、トウカが考えているような理由ではなく、トウカと高波は生きている世界が違う。ユウタとモエのように。

 ――ああ、でも俺よりマシか。

 高波はアバターだけれど、トウカは生徒役として教師役の高波と接触できるのだ。

「ユウタはフラれてないんでしょ。いつか紹介してね」

 いくらか和らいだ表情でトウカが言った。ユウタは否定しかけたけれど、意味がないような気がしてやめる。
 
「フラれたようなもんだけど、諦められないみたいだ。たぶん、トウカとつきあった方が傷つかないんだけど」

「誰かの代わりは嫌だよ。ユウタだって、高波センセの代わりは嫌でしょ?」

 母親のことが頭に浮かんだ。母にとって父は誰かの代わりだったのか、それとも唯一の存在だったのか。

「いつまで抱きついてるの」

 トウカがいつもの軽い口調で言い、ユウタの胸を両手で押す。明るく振る舞おうとするトウカをユウタは好きだと思った。もしモエと会っていなければ、今この場で「つきあおう」と口にしたかもしれない。

 ユウタが何人かの女子から受けた告白を断ってきたのは、トウカのことが頭にあったからだ。高波を追いかけるトウカをながめながら、一番近くにいるのは自分だと思っていた。

「トウカ、これからも高波の追っかけするの?」

「たぶんね。だって、センセはアイドルだから」

「さっき俺にしたみたいに、強引にキスしちゃったら?」

「やだよ。そんなのできない」

 トウカはユウタの腕を小突いた。その感覚は心地良く、ユウタはここにいることを許されているような気分になった。


 翌日、学校で会ってもトウカとの関係は変わらず、高波とトウカの距離も変わらないようにユウタには見えた。高波が担任として毎日教室を訪れる中で気になったのは、目の前にいる高波は〈彼〉自身がログインしてプレイしているものかということ。

 似たり寄ったりの日々の業務を繰り返しプレイしているとしたら、〈彼〉のゲームはいつまで経っても終わらない。〈プレイ中〉の高波と〈オートモード〉の高波がいると考えるべきだろう。

 しかし、本人なのかと高波に聞いたところではぐらかされるに違いなかった。それに、ユウタが〈現実〉を知っているということが高波にバレたらモエに迷惑がかかるかもしれない。

 ユウタは毎日高波と顔を合わせ、そのたびモエのことを考えた。高波に会わなくてもモエのことを思い出した。

 モエがようやくユウタの前に姿を現したのは一週間後。

『トモヤ。アンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』

 エチカの台詞を四回巻き戻して確認したユウタは、翌朝カメレオンベーカリーに寄って学校に向かったのだった。


▶20XX/06/12(1)

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