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いくつもの可能性があるなかで

この前、彼と付き合って3年の記念日を迎えました。
今年の4月にはあと半年で3年なのかと思っていて、でも時間は風みたいに過ぎ去り、気付けば秋が傍にいて。

記念日当日には、毎年恒例の薔薇の花束を彼からいただきました。
薔薇の数は「4年目もよろしくね」という意味も込めて、40本。
わたしはそのときジャージ姿で書き物をしていて、
宅配に出た彼が戻ってきた足音に振り返ると
赤い薔薇、薔薇、薔薇!

写真を撮った後はすぐに花瓶に活けました。
薔薇の花びらは触るとベルベットのように
肌にすいつき、水が花びらの輪郭まで通っているのがわかります。

お祝いは去年のわたしの誕生日のときから、
大事な日はここにしようと、ふたりで決めた「Restaurant Cocon」というレストランで食事。
野菜をふんだんに使い、素材の味を引き立たせる料理や、お店の雰囲気、あたたかな接客が、わたしも彼もお気に入りです。

ひとつのお店に、ふたりで何度も通えるというのは、わたしの中ではすごいこと。
なぜなら人の関係は、簡単に変わる可能性がいつでも、呼吸するみたいに当たり前にあると思うから。
季節がすぐ傍にあるように、わたしの隣にはたくさんの選択肢が並んでいる。
違う人を好きになろうと思えばできるかもしれない、
やっぱり一人で生きていこうと思えばできるかもしれない、
それでも飽きもせず、喧嘩したって結局ふたりでいられるのは、
いくつもある他の可能性を選ばずに、
ふたりでいようという選択をしているから。

選択の積み重ねが各々の人生になるのだけれど、
ふたりの男女の人生として重なるところもあるのかな、(ベンズのような?)と最近思います。

わたしの大好きな作家さん、江國香織さんのエッセイ「いくつもの週末」(集英社)には、このような文章があります。

白い花びらをみあげながら、来年もこのひとと一緒に桜をみられるかしら、と思う。これはまったく単純な疑問文として思うのだ。一緒にみたい、と思うのではない。一緒にみるのかしら、と思う。それはなんだか不思議な感じで、そう思うとき私は自分の人生をちょっと好きになる。来年もこのひとと一緒に桜をみる可能性がある。そのことがとても希望にみちたことに思えて嬉しい。そうして、それは勿論一緒に桜をみない可能性もあるからこその嬉しさだ。

集英社文庫、江國香織「いくつもの週末」91頁

随分長い間、絶対的な愛、みたいなものがあってほしく、
それで安心したい自分がいました。
だって傷ついたりとか、痛いのは嫌だから。
でも絶対的なものはなく、皆が可能性の中の一つを選んだ結果として、
今があり、世界が存在するのだとこの年になって気付きました。

ふと、例えば夕飯を食べているときとか、
彼とひとしきり何かで笑った後とかに
ほんとにふっと、降ってくるみたいに想像してしまうことがあります。

いきなり明日、今、どちらかがいなくなったらどうしよう。
一瞬、足先から足首のあたりまでが寒くなるような心細さに襲われて、
そんなの嫌だと、思います。

もちろん、お互いに思いやり続けていられるように、
ふたりとも努め、大切にしあいたいのです。
でも相容れず、別れたりとかする可能性はもちろんあるわけで。
そんな結果になってしまえば
わたしは当分、気を塞ぐでしょうし、
わたしが急に消えれば今度は彼が、途方にくれる…のかしら?
けれども、ふたりで一緒にいられなかったとしても、
やっぱりこの過去というのは未来とは違って事実だから、
お互い今まで、一緒にいたいと思っていた日々は本当だと思うから
その日々に励まされ、彼も励まされたらいいなあと、思います。
そんな日、がきたらの話ですが。

可能性なんて考えだすときりがなく、でも今は
いつも支えてくれる彼に感謝して、
伸びた枝先にぶら下がる、いくつもの実や葉のような、
折々の笑いや悩み、涙まで
すべてひっくるめ大切に、ふたりで過ごしていきたいです。


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