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また明日ねって言葉に

近所の散歩がすきです。
散歩自体がすきなのもあるけれど、
この近所が、すき。

都会と田舎を足して、2で割ったようなこの街に、
住み始めて、はや半年と1か月が経ちました。
この頃は昼間があたたかい日もあって、
もうすぐ春なのが、鼻をくすぐる空気でわかる。

空がかつんって、突き抜けているから、
歩いているだけで胸がすきます。
深く水色に沈む、冬の空と、
お菓子みたいな水色の春の空が混じっていると、
歩いていて気づきます。

すぐ近くに畑があり、
くるくる笑いそうな菜の花があり、
名前のわからない小鳥たちが畑を駆けまわり、
人間以外の、生きているものが傍にいるのって、
随分気分が軽くなると、この地域に住み始めて知ったこと。

通りを歩くと、小学校の校庭が見えてきます。
こどもの(なんと言っているのか聞き取れないのだけれど)
甲高い声は、聞いているこちらも、つい頬を緩ませてしまうような、
エネルギッシュな声。
でも空の下だからか、その声も空気にすっと消えて、
なんだか名残惜しい響きも、含まれているような。

外で、だれかを、大声で呼ぶことなんて、
全然しなくなったと、
裸の梢を見て、ふと思います。

あの頃は、ただ目の前の遊びが楽しくて
友達の定義とは、だなんて考えず、
一緒に駆けてげらげら笑えていればよかった、
フランクさがありました。

フランクな人って、大人になってもいるけれど、
こどもの難しいことは考えないで、すっと誰かに手を伸ばせる垣根のなさを保持し続けるのって、容易くない。
それは世間にはいろんな人がいて、いろんな感情があって、という事実を知らないから故にできることなのかもしれないけれど、
胸がすくような気軽さ、快活さを発揮できるのって、
こどものほうが得意なのかもなあと、考えながら歩いていました。

散歩の帰り道、交差点で別れるふたりの小学生が、ずっと、互いの姿が見えなくなるまで
「また明日ね~!」
と言いながら手を振っているのを見て、かけがえのない一瞬を見た気分。
「また明日ね」とわたしも高校生?くらいまで言っていたはずです。

「また明日ね」と言えなくなるときが、くるんだなって、
彼らもいつか知るのだろうけれど、
でも彼らには今はそんなことを知らないで、
ただ面白おかしくて、ただ言いたいという理由だけで、友達に「また明日ね」と言い続けてほしいなとも思います。

そのからりとした、耳にこころに直接届く言葉が、いつのまにか思い出になっていて、
それが将来の、「今」を生きる自分を、ふと励ますかもしれないから。

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