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マスク越しでは冬の匂いも感じない

感性が死んだ。
ふと、そう思う時がある。UberEATSで届いたごはんを玄関先に取りに行くとき以外は、家で同じ姿勢のままパソコンに向かう日が続くと特に。

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詩を書き始めたのは、小学生の頃に出された宿題がきっかけだった。「自分の名前の由来を親に聞いてみましょう」という趣旨の宿題で、まともな由来があるのだろうかとどぎまぎしながら母に尋ねた。「たくさんの思い出を詩のように心に織り込んでほしいから詩織と名付けた」というのが母の答えだった。

あまりにも短絡的かもしないが、私はその回答を聞いて詩を書き始めた。詩というのはただの比喩にすぎなかったはずなのに、なんだかそれが、親の期待に応えることのように思えた。小さなノートと小さなシャープペンシルを常に持ち歩いて、言葉が降ってくるたびに書きとめた。学校で配られたプリントの余白は、たくさんの文章で埋まった。小学5年生のときにホームページを作り、詩と小説の公開も始めた。

少しでも心の動く出来事があると、膨大な量の言葉があふれた。それは、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、そして社会人になっても変わらなかった。

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最初に感性の死を感じたのは、今の夫と過ごす時間が長くなり、日常が平穏で幸せなものになり始めてからだ。

私の場合、感性と幸せは反比例の関係にあるらしい。幸せはただそこで完結し、何も生まない。

一人泣きながら海の近くの町をさまよった秋の夕暮れ時、何もかも失ってしまったと絶望してベランダから身を乗り出した夜、次々に言葉があふれて、書きとめておかずにはいられなくなる。切なさ、悲しさ、苦しさが感性の原動力なのだ、きっと。幸せの中に身を置くと、言葉が枯渇する。負の感情を昇華するために、私はずっと文章を書いてきたのだから。

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2020年の終わりに、車を買った。とにかくどこか遠くに、まだ見たこともない場所に行きたくて、週末になると夫にドライブをせがむ。空がとても広い場所で、私は息を吸う。夫しかいない静かな道で、そっとマスクを外して、冬の空気を胸いっぱいに取り込む。そういえば冬ってこんな匂いだったなって、2月になってようやく気づくことがなんだかとても悲しいことのような気がして、頭の中にぽろぽろと言葉がこぼれだした。

助手席の窓から広大な畑を眺める。高校生の頃によく聴いた曲を流しながら。畑のずっと向こうにある山々は教科書に載っていた水墨画のようで、私の生きている世界にはこんなに美しいものがあったんだ、と泣きそうになる。

踏切の音が童心を呼び起こす。ノスタルジーは言葉の栄養だ。失った何かについて思いを馳せると、書きとめるのが間に合わないぐらい、あふれでる。

美しい風景に触れる旅は、言葉を取り戻す旅なのかもしれない。私はこれから、私の感性を蘇生する。

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