見出し画像

「感性」とは何か

最近、頻繁に映画を観るようになった。

起伏に富むストーリーや、激しいアクションがなくてもいい。もやもやしたままで終わってもいい。

ただ、手のひらからこぼれてしまいそうな儚い美しさや、人間のどうしようもない不完全さに触れて、打ちのめされたい、と思う。

・・・

辞書的な意味、歴史の中で積み上げられてきた定義は一旦置いておいて、「感性」とは、何かに触れた時に感動できる心であり、思考できる頭であると思うようになった。

言語化し難い感動にすっぽりと覆われるのか。それよりも、思考が瞬時に枝を伸ばし広がるのか。このバランスは、受け手の特性によって異なるはずだ。いずれにせよ、受け手がいて初めて、感性を突き動かす「何か」が存在できる。

感動や思考を刺激することに長けた美術品や映画、小説、音楽というものは確かにあり、それらは時代に応じて名作として価値づけられているが、万人の感性を揺らすような作品は存在しない。

先日観たドキュメンタリー映画『わたしたちの国立西洋美術館 〜奇跡のコレクションの舞台裏〜』の中で、いい言葉があった。一言一句を正確に記憶している訳ではないが、「何かを美しいと思う、その美しさは自分の中にあって、誰にも奪われることがない。そこがお金や物と違う」と語る学芸員さんがいらっしゃったのだ。

芸術品を芸術品たらしめるのは自分である。否、「芸術品」と一般的に呼ばれるものでなくてもいい。名もなき職人たちがつくる実用品に「用の美」を見出した柳宗悦のように、私たちは身の回りのものすべてに感性を働かせる自由を持っている。

もちろん、一つの対象から豊潤な感動や思考を得ることが「感性」であるとすれば、美しさにこだわる必要さえもない。たとえば、何かの奥に眠る仄暗いものを見出すことでも。たとえば、対象と社会との思いがけないつながりを発見することでも。

・・・

多くの作品に触れ、そして、その作品を的確に批評していると思える言葉に触れることで、感性は後天的に豊かになっていくという実感がある。

それは、一見、批評者の着眼点を模倣しているだけのように見えるかもしれない。けれど、まずは人真似から始めることで、自力では獲得できなかった回路が開くこともある。哲学者の谷川嘉浩さんが、著書『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』の中で他者の想像力をインストールすることを勧めているが、同様に、他者の感性をインストールすることは有効だと思える。

なぜなら、感性が作品と受け手のコミュニケーションの結果である以上、100%の模倣などありえないからだ。受け手の知識、経験、価値観に応じて、どう感じるか、どう思考が広がるか、は変化する。人と似た受け止め方をしたとしても、それらはまったく同じ形をしているわけではない。感性は個人に由来するものであり、だからこそ面白い。

そうやって、他者の感性を借りながら鑑賞を繰り返すことで、同じ作品が違って見えてくることがある。

たとえば、美術館の常設展で、1年前に観た絵画に再び会ったとき。以前は「写真みたいで上手」としか思わなかった絵でも、描かれた時代背景を思いやることで切実さに胸を打たれ、深い感動がもたらされたりする。

過去の私は、抽象彫刻を観ても特に感じるものがなかった。ところが、鑑賞を繰り返し、批評文に触れることで、造形の思いがけなさや美しさ、彫刻が置かれたことによる空間の変化といったものに感動する回路を持つようになった。

そのように、自分の感性の変化を確かめていく試みは面白い。「感性を磨く」という言葉があるが、「感性」とは正解に向かって不可逆の一本道が続くようなものでも、無駄を削いで研ぎ澄ませていくようなものでもないと思っている。きっとそれは、ニューロンのように、シナプスで複雑につながって、豊かになっていくものだ。

回路が開かれた結果、人が生み出した作品に留まらず、この世のあらゆるものに感性を働かせることができるようになれば、それは生きることの喜びにもつながっていくはずである。

たとえば、薄紫色の朝に、一面の星空に、連なる山々に、ヒグラシの声に、湿った土の匂いに。

・・・

芸術は、わかりやすく即効性のある価値を生まないかもしれない。無駄なものに思えるかもしれない。けれど、間違いなく、人の感性を刺激する「何か」がごろごろと転がっているフィールドである。

「芸術が人生を豊かにする」という決まり文句を、私は結構、本気で信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?