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今さらの「羊たちの沈黙」(1991)と狂気の許容が進んだ時代に

今さら「羊たちの沈黙」(1991年)を見た。青白い顔の口の上に蝶が覆っているパッケージで有名なアメリカ映画。グロ系殺人映画であることだけは知っていたが本編を通して観るのは初めて。

1991年。私は10歳である。そのとき私がこの映画を観ていたら卒倒していたと思うし親でもレンタルビデオ屋でパッケージを裏返した瞬間、ちびってすぐ棚に戻したに違いない。NetflixだのU-NEXTだのさんざん契約して、時代性の進行のためかずいぶん私もシリアルキラー慣れし、映画に出てくるLGBTQといった人の生活理解も進んだものだ。

おしなべて狂気というものの許容は、私の生きた公開後の30年ほどでずいぶん進んだのだなと理解した。狂気と迫害される人物はどの時代にもいる。「羊たちの沈黙」であればカニバリズム殺人を犯すレクター博士であり、皮膚を剥がして服を作る被疑者(名前忘れた)だ。レクター博士の収監されている拘置所が映ったとき、若きFBIジョディ・フォスターが地下の牢獄へ降りていく。スリリングなサントラも相まってこのとき恐怖のテンションは前半のピークになるはずなのだろうが、私は吹き出して笑ってしまっていた。なんだかディズニーシーのセンターオブジアースとタワーオブテラーを混ぜたみたいだな、と実際にありそうなアトラクションが想像できたのだ。
ジョディ・フォスターが到着した地下牢には狂った囚人が数名おり、柵越しに挑発したりベロ出したり、下品なセリフで罵倒したりする。その一番奥に冷静沈着で頭の冴え渡った奇怪な精神科医で猟奇殺人鬼のレクター博士が待っており議論を吹っ掛ける。これもまたディズニーの怖い系アトラクションの人形か何かが言いそうなセリフとトーンでなんだか笑えてしまう。

30年前はこれが狂気のあり様だと言われたからこう描かれているのだろう。
今は誰しも鬱だのなんだの罹患して、メンヘラを自称してばからならない人も増えた。私がその牢獄がただのディズニーランド状態に見えたように、今や彼らのおどけたような状態を誰ももはや狂気とは言わないのではないだろうか。私たちは30年かけて化けの皮を一枚一枚うっすらと剝がしてきてようやく今にたどり着いた。「狂っている」という言葉自体、もはや死語なのかもしれない。というよりも私たちは狂っている自分の素性に寛容になっていながら、わりとその恩恵には無自覚に、喜ぶこともせず漫然と生きているのだろう。

狂うことの許容が進むと、かえって狂うという意味は意味を持たなくなる。むしろ意味が際立ってくるのは「普通」である。普通こうする、普通はああなる……「普通」という概念は私たちの道徳的観念として一応存在はするし、目標とすべきはこの普通だとダイナミズムとして存在するのだけれど、もはや普通のほうがマイノリティになっているように思う。だから昨今「普通」は使えば使うほど言葉が宙に浮いてしまうのだ。言葉として浮いてしまうということは、そこにすがる人間が浮いてしまうということ。
「普通」にしがみつく人がしがみつこうとすればするほど潰れてしまうのは、普通(概念としては「善」に近い)がマジョリティであった時代が過ぎ去り、昔でいうヘンタイであることのほうが楽な時代が到来しているからなのではないか。

「羊たちの沈黙」は終わっても何かすっきりしない気持ちだった。それは続編を臭わせるエンディングがあることではなく、ジョディ―演じる若きFBIが、犯人を殺してめでたしめでたしとなったからだ。30年前は罪人を正義として殺め、このような美人の笑顔をハッピーエンドとして作っていた。私はむしろこのエンディングにぞっとした。ジョディ―は犯人射殺後、FBIの学校で表彰されパーティーで賞賛の嵐の中笑顔でケーキ食ってるが、どんな凶悪犯であれ自ら手で人を殺めて笑顔でいられる人間がこの世にいるだろうか。それは過ちではなく正義のバックグランウンドを持った故意の殺人であることには変わりない。理由は何であれ、殺したときの光景や殺したという一個人の体験は、特にあの若さでは一生引きずる重たいものだろう。ときどき日本にも奇妙なテロリズムは発生するが、死刑廃止国が増えている昨今人間の命はひょっとしたら一昔前より重く扱われている気もする。

昨年からアメリカでBlack Lives Matter(黒人の命は大事だ)という運動が盛んになった。BLMムーブメントの是非・フェイク性はここではおいておき、人の歴史の面白いところはその時代時代で、強者が弱者を守るような動きに車輪のように回転して動いていっていることである。一見歴史とは強い者が動かしているようだがそうでもない。弱者はいつの時代もいるし露呈するには考えるほど難しくない。フラストレーションというエネルギー体として露呈するからだ。ゆえに力強い。その時代時代の弱者が声を上げ、強者が保護するようなムーブメントが起こっていって、ひとつ前進したかと思えば次の弱者が手を上げまた問題解決に取り組んでいく。女を例にとっても選挙権を得たのは1945年市政選挙、それから雇用機会均等法に進み、それから労働法に進み、それから組織内部の個々の地位向上があり、それから児童手当や保育所改善があり……とスローペースでも上は下を見ていくように歴史は面白く動いている。もちろん社会の弱者は女に限らない。

狂気とは、善を元にした「普通」への激しい抑圧から生じる概念だと私は思っているが、狂気の許容が進んだということはつまり、各人の個性化が進み「自分は自分でよいらしい」ということが進んでいるということだろう。趣味、嗜好、闇、癖、見た目、その基準が同一化されず緩んでいる。摂食障害とか鬱とか自傷行為とか毒親とか声高に言ってももはやあんまり珍しがられないのは、流行っているというより「人生そんなもんっすよね」とキャパの基準が下げられたからだろう。そういう方々はもう病気の土俵で勝負してもしょうがない。悩んでいる人は別の個性を探したほうがなんだか建設的に感じた。どんな境遇の人であれひとつやふたつ自分の個性はあるだろう。その個性を許容している社会変容の土壌が今まさにあるのだとすれば、今は個性化するよきチャンスともいえるのではないか。

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