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八月二十四日

 あの日もこんな暑さだったなと、九段坂を登りながら懐古した。
 いや、もしかしたら気温も湿度も全然違ったのかもしれないけど、当時の僕は心臓が五月蠅いくらいに跳ねていて、暑さなんて気にしていられなかったんだと思う。あるいは、子供みたいに純粋な感情の高ぶりが、人を殺すような炎天下を搔き消していたのかもしれない。

 一年振りに訪れた武道館は、あるバンドのライブが行われるようだった。グッズTシャツを着た人々が、どこか落ち着かないような様子で待機し、鞄につけた缶バッチは、強い日差しに煌めいている。
 物販に並ぶ長蛇の列も、緑青の屋根から漏れ出すリハーサルの音楽も、一年前の今日を思い起こさせる。参加者の邪魔にならないように、道の隅で建物の写真だけ撮ると、僕は足早にその場を去った。

 実のところ、武道館を遠くから眺めながら、僕は「迷惑になっていないかな」だとか、「流石に場違い感があるな」みたいなことを考えていた。
 家を出た当初は、感傷にでも浸るようなつもりでいたのだけれど、賑やかな喧騒に囲まれていると、どうにもそんな気持ちにはなれない。場の雰囲気に、部外者ながら多少なりの高揚感を覚えながらも、やっぱり疎外感みたいなものは拭い切れなかった。
 自分と同じものを愛する観測者が大勢集い、これから目撃する『何か』に胸を高鳴らせる。あるいは、実際に観測した事件そのものも、会場を出た直後の熱を帯びた身体を冷やす雨も。あの日の強烈で刺激的な記憶は、「あの八月二十四日」という、一つのアルバムとして綴じられている。仮に武道館という現場を訪れたところで、そこにあるのは懐古でも感傷でもなく、単に時間の流れを実感させる「今」だけだった。

 あの日から一年が経った。その事実が未だ受け入れ難い。
 神椿はこの一年間で色々なことがあったし、僕も環境の変化で言えばそれなりに目まぐるしかった。けれど、変わったのは環境だけだ。人間は環境によって大きく変化すると言われるのに、僕はというと環境の変化を言い訳にしている。
 歌声で救われたり、ライブで創作欲を刺激されたりしながらも、けれども僕は、進化と呼ぶにはあまりにも遅い歩みで進んでいる。
 確実に進んでいるだけマシ、なのかもしれないけれど、やっぱり遅緩かつ怠惰な状態で生きていると、世界や社会からおいて行かれてしまう。募るのは焦燥感と自己嫌悪で、だから僕は、今日という現実が少し怖かった。
 花譜は成長している。神椿も進化している。彼女たちに比べると、自分は酷く小さくて、見栄を張っただけの軽薄な人間なのだと。
 今日武道館を訪れた目的の一つに、現実と向き合うための儀式的な意図があった。僕は間違いなく、あの日この場所で劇的な変化を迎えている。生まれ直したと言ってもいい。それが孵化なのか発芽なのかは分からないけど、ならば僕は、今日飛翔しなければならない。今開花しなければならない。
 八月の熱と青空には、魔女たちの歌声がそうであるように、不思議な魔力が宿っているのだから。

 開花といえば、なんて変な関連付けの意識はなく、武道館を後にした僕は、そのまま新宿駅へと向かった。
 新宿ウォール456。案の定少し迷ったし、もう一度見に行こうと思っても多分迷うと思う。駅内を彷徨うこと数分、聴きなれた声が耳に入ってくる。
 鮮やかで目を奪われる映像。なぜかリアリティーが増したように感じる、少し粗いサウンド。横長の巨大なスクリーンに、彼女たちがいた。

 不可解参(狂)で花譜の横顔を観測したあの時。仮想の実存を認識するという、二律背反で何とも言語化しにくい感動を覚えたことは、高密度だったあのライブの中でも一際記憶に残っている。その時と似たような感覚が、代々木決戦の宣伝映像を見た時にもあった。
 普段僕が彼女たちを観測するのは、モニターの向こう、インターネットの世界である。それが、現実世界にも飛び出してきたような感覚、彼女たちが、目の前に来たような感触。多くの人々が特別興味も無さそうに通り過ぎていくこの通路こそが、"ここ"ではない別の世界なんじゃないかと錯覚するほどに、その映像が目に焼き付いた。
 時間帯を考慮せず足を運んだせいで、行き交う人の波で満足に写真が撮れないし、(だからなのか)他に写真を撮っている人も見受けられなかった。巨大なモニターも複数ある柱のモニターも、全て自分が独占してしまっているような、自分勝手な幼い感情を湧き上がらせてしまう。

 正直な話、武道館ライブという偉業を「よくバンドとかアーティストが目標にしているすごいこと」くらいにしか認識していなかった僕にとって、代々木体育館でのライブという事実も、収容人数でしかその凄さを実感できていない。
 とはいえ、というかだからこそ、「神椿史上最大のミッション」という謳い文句に、僕は全幅の信頼と期待をしている。
『現象』は二回目を迎え、花譜のワンマンライブは新たな名を冠する。PIEDPIPER氏が代々木決戦を臨界点と言い表したように、この事件で目撃される劇的な変化というのは、勿論僕たち観測者だって例外じゃないだろう。
 それに、これは決戦なのだ。であるならば、中途半端な状態で挑戦する訳にもいかない。僕だって成長して飛翔して、代々木での現象を観測しなければならない。進化して開花して、花譜という少女の新しい物語を共創しなければならない。いや、ただそうしたいだけかもしれない。
 だってその方が、きっと楽しい。

 渋谷もやっぱり混んでいて、パネルを見上げている人は見当たらない。都会の昼夜は極端に空気が異なっていて、僕はそんな雰囲気が結構好きなのだが、段々そういう「都会っぽさ」にも順応してきてしまっていて、それが何だか寂しさを覚える。……これはまぁ、完全に余談。
 一年前東京に来た時も、ここでスクランブル交差点を撮った記憶がある。当時すでに別の広告に張り替えられていた、『前触』の時に縦長の横断幕が映された画角に似せて。
『前触』の衝撃も、『予兆(怪)』の高揚感も、やっぱり神椿は演出が憎いなと笑いながら噛み締めていた。僕はこういうクリエイターになりたいのだ。予告だけで人を沸き立たせられるような、そんな作品を創りたいのだ。
 だから僕は、神椿や所属する彼女らに、憧憬以外の感情も向ける。未熟ながらも、一人のクリエイターとして向き合う。そんな熱量だけはしっかりと秘めているのだから、僕はどうにも、大嫌いな僕自身を嫌いになれない。

 結構古いiPhoneの傷がついたレンズで撮っているから、武道館も新宿456も池袋パネルも、いい写真が撮れたとは言えないと思う。別に、撮影の技術があるわけでもないのだから。
 とはいえ、記憶を呼び起こすための手段としては、十二分に機能する。現に僕は、時折一年前の写真を見て、当時に戻るように記憶を撫でている。僕の網膜は八月二十四日を鮮明に焼き付けているし、歌を聴けば、あのライブ会場で鼓膜を震わせた音楽がフラッシュバックする。
 人間が最初に忘れる記憶が匂いだというのなら、音楽は生涯忘れることのないレコード盤だと思っている。歌は傷として刻まれ、感傷という針を落とすことで鳴り響くのだ。

 代々木体育館の場所だけ地図で調べて、僕はそのまま帰路についた。武道館の時もそうであったように、代々木体育館にもライブ当日に初めて訪れようと考えて。……現地落選の可能性は考えてなかった。落ちたら多分次の日にでも行くのだろう。
 思えば、(狂)の現地チケットに当選したことが、大きな転換点だった。勿論、それ以前から花譜のことは好きだったが、観測者を名乗っていた記憶はないし、チケットもどうせ当たらないと思って半ば諦めていた。
 配信で観ても沼に嵌ってはいたのだろうけれど、やっぱり現地で観測した体験は貴重だ。代々木決戦も現地で観測して、約一年半の変化と成長を実感したいなと、まだ値段の確認もしていないチケットのことと、案外すぐやってくるであろう当日のことを考えながら、僕は電車に乗った。

 八月が嫌いだった。学生時代は夏休みがあったとはいえ、そもそも出不精な僕は暑いのが苦手で、おおよそ青春らしい夏の思い出をつくれる人種でも無かったから、寧ろある種のコンプレックスすらあった。
 けれど、一年前の今日から、僕は八月が少しだけ好きになった。人生観が変わるような表現に触れ、クリエイターとしての僕を形成する大切な呪いを与えてくれた。
 八月二十四日は、汐涙という観測者にとって、愛すべき夏の青である。
 この傷も、この呪いも、この痛みは全部僕のものだ。

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