すっぱい葡萄とプライドの高い私たち


 「重かったんだよね、そういうのが。」
そう言うと彼は、ゆっくりグラスを傾けた。そっかぁ、と相槌を打ちながら、私は残り少なくなったミックスナッツをいかに時間をかけて食べるか考えていた。手元のグラスはとうに空いていたけれど彼がそれに気づく気配はまるでなかったし、私も話を中断してオーダーするほど飲みたいわけではなかった。ただまるで興味のないこの話題が終わるまで(欲を言うならそうして「そろそろ帰ろうか」という流れになるまで──この点において今ドリンクを頼むのは得策ではない──)気を紛らわすものが欲しかっただけで。
 “重かったんだよね”というのは、彼の元カノのユウコの話である。
 「寂しいとか言われてもさぁ、困るじゃん」
俺だって疲れてる時もあるし、仕事だってあるし。そんなに毎日連絡することもねえし。第一通話しててもお互い黙ってる時間も多くてさ。
 そうだよね、とまた気のない相槌を打ちつつ、私は顔も知らないユウコのことを羨んだ。会いたいとか、寂しいとか、そういうことをきちんと言えるオンナなのだ、ユウコは。
 グラスの水滴を拭いながら、私はユウコについて考えた。ユウコはきっと、「昨日一緒にいた女の人、誰?」とか、「私のこと、好き?」とか、そういうことをふつうに聞ける。毎日おはようとおやすみのメッセージは欠かさないし、たぶん記念日なんかも大切にするたちだ。いや、知らないけど。でも、何の根拠もないくせに、外れている気はしなかった。私は名前しか知らないユウコのことを想像し、想像の“ユウコ”を羨んだ。
 私は“ユウコ”にはなれない。いかんせん、私のプライドは山より高い。寂しいとか会いたいとか、口が裂けても、たぶん言わない。「私のこと、好き?」なんて、ぜったいに聞かない。ぜったいに聞けない。私がそういうことを言えない・聞けないオンナだとなんとなくわかっているからこそ、彼は私にこの話をしているのかもしれなかった。

 その後しばらく、話題は彼の恋愛遍歴に関することであった。数年前に付き合っていた元カノや想いを寄せていた女性たちについて、彼は(ユウコについて話したのと同じように)彼女たちとの関係がどのような原因でうまくいかなかったかを延々語り続けた。重かった、わがままだった、料理ができなかった、背が自分とあまり変わらなかった──理由はじつに様々だったが、新しい理由が出てくるたびに私は「へぇ」とか「ふぅん」とか言って、最低限話を聞いているという姿勢だけは見せた。そうして内心、残りのカシューナッツ──私はナッツの中ではカシューナッツが格別に好きだ──の数について考えていた。
 結局のところ、彼は何を言いたいのだろう。グラスを傾ける指先と上下する喉仏を見るともなしに眺めながら、私はぼんやりと考えた。あいつはこうだから俺にふさわしくなかった。あいつはああだから俺とは合わなかった。こういう話をする男の人たちって、そのあとに何を続けたいのだろう。「だから俺が悪いわけではない」という正当化?「だから昔の女にはもう未練はないんだ」という虚勢?場合によっては「そういう点で君は彼女たちとは違うから俺と合うと思うよ(だからこの後ホテルにでもどうかな)」というお誘いってこともあるかもしれないし、あるいはそんな推測は全部深読みに過ぎなくて、単純に話題に困って沈黙が気まずいからとりあえず思いつくことを話しているだけなのかもしれないし。
 ずるいなぁ、と思う。感情的に昔の男を批判する女も大概だが、「自分は論理的で合理的で客観的で中立です」みたいな顔をして昔の女を批判する男はもっとごめんだ。合わなかっただけと言葉の上では言いながら、相手を責めるつもりはありませんという顔をしながら、彼らは決して「自分のこういうところが相手に合わなかった」という話はしない。「相手のこういうところが自分に合わなかった」という話しかしない。相手が悪いとは思ってないんだけど、と言いながら、相手の悪いところを饒舌に喋る。ずるいなぁ。「あいつは嫌いだ、ひどい女だった」とはっきり言う方がよっぽど潔い。
 “すっぱい葡萄”だ、と私は思った。キツネがブドウを見つけ食べようとするも、木が高くていくら跳んでも届かない。キツネは腹を立て「どうせあんなブドウはすっぱくてまずいに決まってる。誰が食べてやるものか」とブドウを食べるのをあきらめる──21世紀に生きる私たちは、イソップ物語よりたぶんもう少し狡猾だ。「あのブドウも別に悪くはないと思うんだけどさ」悪いとは思ってないんだけど、と言いながら悪いところを饒舌に喋る。「ブドウって種があるから食べるのが面倒じゃない?それに皮だって剥かなくちゃならないし。ブドウの皮ってなかなかきれいに剥けないから苦手なんだよね、爪の間に挟まるしさ。いや、ブドウも良いと思うんだけどね。」
 「あのブドウうまそうなのになぁ、くそっ」と口にすることはもちろんだけれど、「どうせあんなブドウ、すっぱくてまずいに決まってる」と言うことすらも、21世紀の私たちにはきっとものすごく難しい。
 酒に強くない私はたぶん少し酔っていて、私よりいくぶん強めの酒を飲んでいるはずの彼はたぶん少しも酔っていなかった。私は少し酔った頭で、ここにいない男のことを考えた。過去の女について話しながら「あの時は俺も若かったからなぁ」と目を細めた男。アルコールでゆらゆら不安定な思考回路はいやに正直で、ああ、会いたいな、声が聴きたいな、と素直に思った。初めて聞く“すっぱい葡萄の話”より、あの男との何十回目かもわからないようなくだらない軽口の方がよっぽど楽しい、とも思った。そうして、自分がそんな風にその男を思い出すことにいささか驚きもした。

 彼の恋愛遍歴がとうとう中学時代にまでさかのぼった時、私は「ごめん」と声をかけた。明日朝はやくて。途中から私は“すっぱい葡萄の話”をあまり聞いていなかったし、私が話を聞いていないことはもしかしたら彼にもばれていたかもしれなかった。実際、中学時代までさかのぼった彼の恋愛遍歴について、私はユウコのこと以外すでにきれいさっぱり忘れていた。

 帰り道、「あの時は若かった」なんて目を細める男について考えた。そんな年寄りじみた台詞を使うには、私たちはまだ若すぎた。私も彼も、まだ若い。年齢だけではなくて。でも、手が届かなかったブドウについて「手が届かなかった」と言える彼は、(少なくとも私よりは)いくぶんオトナなのだろうと思った。かなわないなぁ。プライドの高い、“ユウコ”になれないままの私は、打ちかけていた「声が聴きたい」を送らないまま消去した。
 

 PCのフォルダを整理していたら昔書いた文章が色々出てきたので、手直しをして少しずつアップしたいなと思っています

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コメント1件

好きだったんだ。もう、好きじゃないのが、嘘みたいにね。
と言う男の人に会いたいです。
そうなんだよねー ほんと、身勝手。
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