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普通を目指した、自分を見失った

普通になりたかった。ずっと、小さい頃から「ズレている」という感覚だけあった。何故か周りと話が合わなかった。好きなものが周りと違った。ただ、生きる為に普通になりたかった。

༝ ༝

幼少期は「女の子らしい」ものが悉く嫌いだった。幼稚園の誕生日パーティーで白いドレスを着せられるのが嫌で、毎年誕生日なのに泣き叫んでいた。周りの友達が「お嫁さんになりたい」「子どもが欲しい」などと言う中、私は何一つ共感できず適当に話を合わせた。

小学生に上がるとクラスごとの繋がりが強くなり、より「ズレ」が目に見えた。周りと話が合わないから、昼休みにはいつも読書をしていた。だけど、正義感だけは異様に強く、いじめは見て見ぬ振りができなかった。自分が標的とされたときには酷く憤った。

中学生でも異様な正義感は健在で、陰口や無視を決める同級生に「直接言いなよ」と食ってかかった。そのとき、私1人が何を言ったところで何も変わらないのだと知った。他にそんなことを言う人はいなかった。惨めだった。自分への自信や、自分への信頼などは中学二年生の頃に消えた。そこで初めて「普通ではない」ということに劣等感を覚えたのだ。

周りから見たら大人しい、静か、真面目、優等生などに見えたのかもしれない。だが、内には強い思いがいつもあった。それに反することは絶対にできなかった。だけど、気付いた。「普通になれば生きやすいのではないか」と。

そこからは普通を目指した。高校は知り合いが誰もいないところを選び、一から始めた。周りに合わせて明るく振る舞い、あれほど嫌だった恋愛やメイクにも挑戦した。眼鏡はコンタクトに変え、スカートを短くし、「女の子」を演じた。そうしているうちに、それが"普通"になった。私は喜んだ。普通になれた!

失敗した高校受験の記憶を払拭すべく、勉強も頑張った。そうして、一般的に高学歴と呼ばれる大学に入学した。だが、そこで待っていたのは、恐ろしく高い「普通」のハードルであった。

༝ ༝

いつだって周りの「普通」に左右されてきた。必要なのは確固たる自分だとわかっている。だけど、それを得るためには、普通であると言う自負が必要なのだ。けど普通ってなんだ?基準はどこにある?

「普通」を追い求めるがあまり、私は私を見失った。元はどういう考えをしていたのか、どうしてその行動を取ったのか、私だったはずなのにわからない。私だったはずのそれは、いつの間にか私の手を離れて何処か遠くに行ってしまった。

周りに合わせて自分を押し殺す。そうしている内に押し殺していたことも忘れてそれが自分となる。そうやってみんな生きている。そうやって生きないと生きづらいからだ。

けど本当にそれでいいのか。私だったはずのそれは無くなってしまった。自分とは何なのだろうか。個々が異なり自分も変わってゆくなら、何に縋って生きればいいのだろうか。

༝ ༝

多分こんなことを心配している私はまだ大丈夫だ。変わらない何かをもち続けることさえ忘れなければ、自分は消えない。けど、久々に会った友人が環境に影響され別人になっていた時はやはり哀しい。いつだって、変わらない何かを持ち続けることでしか自分自身を証明する術はないのだ。

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