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暗黒日記Z #40 「来世は人外がいい」

 リアクション動画を見るのに数年前からハマっている。特に海外の方の動画。アニメやニコニコ動画が好きな人なら一度は目にしたことがあるであろう「海外の反応」とかあの手のやつだ。沢山の外国の方々の顔がワイプのように映し出されていて、中央にはかなりボカされていたりフィルターがかけられていたりして音声も極限まで絞られたアニメ本編が載っているやつ。あのスタイルの動画に使用されていた内の一人である「伯爵ニキ」「お茶ニキ」といった呼ばれ方で知られるTeeaboo氏が気になって元動画を見に行ってみたのが、本格的に色々なリアクション動画を見るようになるきっかけだった。

 海外の反応シリーズのイメージしかないとリアクション動画というのはアニメのリアクションしかないものだと思ってしまうかもしれないが、実はそうでもなかったりする。音楽のリアクション動画もとても多い。Teeaboo氏はアニメ専門ではあるが。音楽の場合、対策を講じている人もいるものの、当たり前のように多くの人が音源をそのまま自分の動画に使用している。そのスタイルで銀盾や人によっては金盾までもらっているようなケースもあって、そういった人の作ったコンテンツを楽しませて頂いている身でありながらも毎度「著作権ェ……」とインターネット老人は思うのである。

 そしてリアクション動画を見ていてもう一つモニョってしまう点としては、自分はいま擬似的に承認欲求を満たすという虚しい行為に勤しんでしまっているのでは無かろうかという思いに駆られるということも挙げられる。リアクターの方々がwow! awesome! insane! so cool! fuckin' good! と称えているのは当然とかいう以前の前提も前提な大前提ではあるが動画を見ている私ではなくリアクター様の眼前に映るモニターの中で輝くそれはそれは素晴らしいアニメや音楽やその他諸々なのであって、そうしたふぁっきんぐっどなえぶりしんぐをキラキラした目で見て喜んでいる人たちをニヤニヤしながらひとりで眺めてる自分キモすぎだろ、と悲しくなるのだ。本来私ではなく最高のコンテンツを作り出したクリエイター達だけが独占できるはずの称賛を労せずして得てしまっている気になる。楽しんでいながらもどこか満たされない気持ちで、とてもいけないことをしているような感覚に陥る。謂わばもうこれって人恋しさでアレがアレなアレじゃんとまで思わないでもない。そんなことを言い出すと全ての娯楽はそうなってしまうのだが。結局人間も動物だし人類の歴史なんて宇宙からすれば一瞬にも満たないカスみたいな時間だし宇宙の外にはきっと外宇宙があるしそこには上位存在達がうようよいるしその更に上位の存在もいるから全ては無意味……という私が考え事をする時に必ず最終的に行き着くいつもの地点が慣れ切った顔して片手を挙げて挨拶してきてしまうのだけども。またバーボンハウスかよもうテキーラ飲みたくねぇよとインターネット老人は思うのである。

 リアルな反応、というところで言えば、最近になって私はようやくまともに人の目を見て話せるようになってきた。こんなことを言うと人と目を合わせられない典型的なアレのように思われるかもしれなくて心外なのだが典型的なアレなのだ。これまでの人生でろくに人と目を合わせたことがない。今にして思えばそれでよく専門学校で演技の勉強なんてしようと思ったなという感じだしよく卒業できたなという話だしよくもまあ恥知らずにも演劇で身を立てようと上京なんぞしやがったもんだな、と過去の自分の身の程の知らなさに戦慄する。死ぬど。割と冗談でなく生きていけなくなっていた可能性ありまくりなのでここまで自活出来ているのって実はかなり凄いんじゃないかという気がしてきた。ひょっとすると私は凄いやつなのかもしれない。称賛されて然るべきかも。リアクション動画の数々によって他人からくすねていたつもりでいた称賛の反応は実際のところ十分受けるに値する物だったのか。わーい。

 飛躍した論理は嵩張って邪魔くさいので脇にどかすとして、私は人と目を合わせることが出来なくなった理由を明確に覚えている。何だかこの話は前にもnoteに書いた気がする。でも確証は無いので改めて書く。それは確か、小学校に上がるか上がらないかの頃のことだった。私は洗面所で鏡を見ていた。自分の顔を見て、鏡の中の自分と目を合わせていた。何ということもない、それまでずっと毎日の歯磨きの時間などで当たり前のようにしていることだった。それなのに、ふととても怖くなった。鏡の中にいる自分が自分とは全く別の誰かのように感じた。今にも鏡の前の自分とはまるで違う表情になるような気がして、恐ろしくて見ていられなくなった。それ以来、鏡を見るのが怖くなり、特に鏡に映る自分と目を合わせるということがどうしても出来なくなってしまった。人と目を合わせられなくなったのもその時からなのである。目を合わせていると、鏡の中の自分、得体の知れない不気味な存在に見られている時の感覚に襲われて怖くなってしまう。

 そんな私が最近人と目を合わせられているのは、会話とは言葉だけでするものではなく目やその他身体全体で行うものだということが今更ながら分かってきたからだ。会話においてアイコンタクトなどによって伝えられるニュアンスは意外なほど多いことを身をもって感じられる瞬間が何度かあり、こうすれば良かったのかと、攻略不可能に思えたボスの見つけてしまえば簡単すぎる倒し方に辿り着いたような嬉しさに浸っている。鏡の中の誰かについては、実はずっと昔に打破出来ていた。そちらは逃げずに向き合い続けるという方法で克服することが出来ていたのだから、他者に対してもそれをすれば良かっただけだったのだなと今となっては思う。多分、私が見るのを拒否してきた目の中には私が勝手に受け取ってしまっていたのとは違う感情も無数に存在していたことだろう。体感、実際に会ってのやり取りと文字上でだけのやり取りくらい、アイコンタクトを用いての会話とそうでない会話には違いがあった。個人的には凄い発見だった。原始人類でも気付いていそうなことだが。はやく人間になりたい。

今回の話題と関係無いようであるようでやっぱり無いんだけど『光が死んだ夏』が信じられないくらい良いからまだ読んでない人は今すぐ読みな。無料で最新話まで読めるから。何も前情報入れずに今すぐ読んでくれ。こんな過疎日記開いてないで一刻も早く読みに行って欲しい。

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