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思考する獣 | エッセイ集

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仕事をしながら、暮らしをしながら、ふと獣のように湧き出る思考を書き留める実験のようなエッセイです。すこぶる元気な時より、すこしもの暗く静かな時のお供にどうぞ(*月1〜2本目安で更… もっと読む
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#創作

多様性と自由の対価として、私たちは対話を義務づけられた。

「これからは多様性の時代です」 待ち望んだ週末。生ぬるい空気が流れる午後のリビングで、テレビから生真面目なコメンテーターの声が耳に入る。そちらにチラリとひと目をやってから、また私は手元のスマートフォンで読みかけの小説に意識を戻そうとする。するのだけれど、どうにも一度耳に入り込んだ「たようせい」という言葉が妙に頭に引っかかってしまい、もう私はどうにも活字の世界に出戻ることができなくなってしまったようだ。 こうなると、私の頭はもう考えることにガコンとスイッチが入って戻ることは

表現における「母国語」を探して。

私は、幼い頃から創ることが好きだった。 幼稚園では人の何倍もの冊数のスケッチブックを描き潰し、小学校に入れば美術の時間と夏休みのポスターに全力を注ぎ、家にある段ボールやドングリで黙々と工作をした。めちゃくちゃなようで、それは結果的に美大進学へ通じる最初の脚掛けでもあったように思う。 たぶん今思うと、わたしは私の感情を、感覚を、どうにか正確に形にしたくて「表現」というものにずっと悩み続けてきたように思う。どうすればズレなく、抜け目なく、腹の底でうねり上げる希望や、孤独や、そ

趣味や創作における「後ろめたさ」を取り除くこと。

「こんなこと、やってて良いのかな。」 創作活動を続けていると、ふとこんな怖い言葉が脳裏をよぎる。文章を書いているとき、カメラのシャッターを切るとき、動画を撮っているとき、マイクに向かって喋るとき。繰り返し、繰り返しで頭の中に反響する。 同時に生ぬるく湿った大きな手が、ぬっと肩にかけられるのを感じる。嫌だ、やめてくれ、忘れていたのにと思いながら、私は耳を塞ごうとする。声の主は頭の中にいるのだから、直耳を塞いだところで交わしようがないのだけれど。そして耳元でこういうのだ。