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多様性と自由の対価として、私たちは対話を義務づけられた。

「これからは多様性の時代です」

待ち望んだ週末。生ぬるい空気が流れる午後のリビングで、テレビから生真面目なコメンテーターの声が耳に入る。そちらにチラリとひと目をやってから、また私は手元のスマートフォンで読みかけの小説に意識を戻そうとする。するのだけれど、どうにも一度耳に入り込んだ「たようせい」という言葉が妙に頭に引っかかってしまい、もう私はどうにも活字の世界に出戻ることができなくなってしまったようだ。

こうなると、私の頭はもう考えることにガコンとスイッチが入って戻ることはない。いよいよ観念してスマホを床に放り投げると、私は天井を見上げてもの思いにふけ始めた。

多様性、自由、個人の時代。

最近よく耳に入るようになった、聞きざわりの良い流行りの単語を頭のなかで反芻していく。高らかに、新しい時代の幕開けとでもいうように、私たちはビジネスでも私生活でも「多様性」「自由」「個人」という甘美な言葉を使うようになった。

その副作用を、私たちはどこまで理解できているのだろうか。

多様性の裏面

差別は、ない方がいいと思う。

制約があるよりは自由な方がいいし、団体行動しかできないよりは個人行動もできたほうが、実際のところ私自身も性に合っている。会社という箱を出てはや一年と少し、この押し寄せるリベラルの大波の恩恵を余すところなく享受している身としては「いい時代に生まれたな」と有り難く素直に受け取るべきなのだろうと思う。思うのだけれど。

どこかで、何かが頭に引っかかるのだ。

これだけ恩恵にあやかっているから、正直なところとやかくいうのも気が引ける。なにせこの大きな時代の変化を作ったのはオピニオンリーダーや活動家といった矢面に立ち続た勇気ある人々であり、それを背に「当たり前を疑おう」とあがいた市井の一人一人の変化があって生まれたものだ。

その手前には何世代もの膨大な歴史と、人々の犠牲と葛藤の積み重ねが横たわっており、これは人類がようやく辿り着こうとしているひとつのユートピアへの糸口でもある。

それでも、ふとした瞬間に思い知らされることがある。

私たちは「多様性」と「自由」という甘美なものを得る代償を、支払わずにはいられない。何かが変わった時に、それは手放しに良いことばかりがあるわけではないからだ。それは産業革命が人類を大きく進歩させたと同時に、環境問題と大量の職が一斉に失業することとなった関係に少し似ているかもしれない。

端的にいえば私たちは多様性と自由を得る代償として、常に前提がちがう人や理解しえないモノゴトに対し、逃げ場のない日々の「対話」を義務付けられたのだと思う。

アイツらが支えていたもの

差別や集団行動が当たり前の時代は、良くも悪くも社会全体の「前提」が揃っていたのだと改めて思う。

どうすれば幸せで、どう振る舞えばつまはじきにされるかは分かりやすくオセロのように白黒がついていた。日本でいえば大人の言うことをよく聞き、勤勉に学び、大学を出て大きな会社に入る。たくさん働いて、良いパートナーを見つけて一軒家を買い、車を買い、子供を作る。週末はみんなで出かけて、たまには親孝行もする。

そういうのが幸せで、成功であったのだと思う。

そういときは、ヨーイドン!でみんながそのゴールテープ目がけて走るだけでよかった。向かってる先も、進むコマの順番もだいたい決まっていたから、たぶん今よりずっと周りの人間と「共通の話題」とか「似た悩み」を持ち合わせていたのだと思う。だから会社の飲み会も、近所の井戸端会議も、全員が楽しいと思っていたかはわからないが、おそらく今よりは健全に機能していたのだと思う。

それは日本人の得意とするハイコンテキストなコミュニケーションが極まっている状態あり、ある意味いろんな前提をすっ飛ばして軽やかに社会が回っていたのだと思う。

そしてその軽やかさを保つために、一定の人々がつまはじきにされた。

共通するものや前提が増えれば増えるほど、社会は回りやすいという悲しい現実がある。これは人が群れ、共同体を作り、国家となって文明を発展させてきたひとつの要因でもある。身近なところでいえば、私たちは初めましての人ではなく気の知れた友人と遊ぶし、家族と多くの時間を過ごす。似た価値観をもった人が集めて会社を起こして、事業を高速で回す。

共通するものや前提が合えば、細かいことをつとつど説明しなくて良い。それは物事を進める際の大きな利点となり、世界がスピードを上げて走り出すための大きなエンジンなのだ。

だから前提が合わない相手というのは、正直に、語弊を恐れずに言えばこれまでは脅威とみなされていたのだ。

だからどの時代においても、人は「わたしたち」と「アイツら」を手際よく分けて一定の前提を統一して生活をしてきた。アイツらに自分たちの前提が脅かされないよう、社会が回るように団結を強め、時に戦い生き残ってきた。それは時に民族であったり、宗教であったり、階級であったりした。

選別される対象はその時々で対称となるグループや、わかりやすいユーニクさと一定の少数性を兼ね備えたものだったはずだ。それは原住民であったり、魔女とも呼ばれるものもあっただろう。

それが今では手をかえ品をかえ、別のものに一部が置き換わった。勉強ができない人、学校を中退した人、会社という働き方が合わなかった人。性的な価値観、出身や生まれ、見た目という風に少しずつ変化してきた。

とある集団の「前提」を脅かす侵略者との抗争を別の視点からみると、それが誰かや彼らにとっての「差別」になるのだと思う。

夢の先の飛び火

みんなのために「誰か」や「彼ら」の前提を犠牲にして良いという暗黙が、ついに破られた。

間違いなく社会は前に進んでおり、私たちは日に日に「個」として、ささやかな違いも、大きな違いも許容される新しい時代が幕を上げようとしている。誰もが大なり小なりマイノリティの一面を持ち合わせているからこそ、個を重んじるリベラルの今の潮流は間違っていないように思われる。

しかしそれと同時に、不思議と「炎上」という現象が社会のあちこちで散見されるようになった。それは誰かの不祥事やマイノリティへ対する失言、世間的によろしくない行動とされるものを吊し上げ、群衆から目も当てられないような罵詈雑言を浴びせるものだ。

これは皆さんもご存知の通り、私たち自身が是非を問われる新しい問題となっている。

もちろん、この新しい価値観に刷新されようとしている時代において昔に逆行するような価値観を野放しにしておく危うさは認めようと思う。これからの公平性や個を重んじる生き方を渇望する人にとって、それは絶対に戻ってはならない戦場の最前線だからだ。

しかし、時にその炎は人を死に追いやることがわかってきた。

人の熱量は取扱いを間違うとひどく恐ろしく、エネルギーの暴力と言えるほど時に誰か個人に重く降りかかり、社会的にだけでなく本当にその人そのものを殺してしまうような惨事が生まれている。

多様性が受け入れられ、個人が尊重され、自由を手にしようとしているはずのこのユートピアの夜明けとも言われる現代で、急に私たちの前に現れたこの痛ましい社会現象の裏には何があるのだろう。そう考えさせられた時、私はふとひとつの仮説に辿り着いた。

誰も差別してはいけない世の中で、差別する人を差別するという最後の「マイノリティ」が生まれているのではないかと。

差別できない世界の生贄

私たちは必死に差別を減らそうとした、格差を無くそうとした、どうにかみんなで幸せになろうとした。

その結果、私たちは「とある集団」を「長期的につまはじきににする」という生贄がタブーとなった。誰にも違いがあり、得意と不得意があり、その全てが尊重されるべきだという理想へと一歩を踏み出した。しかしそのしわ寄せが、いま個人に、無差別で瞬間的に降り注ぐようになったのではないか。

悲しいことに、やっぱり私たちは心のどこかで「アイツら」を欲しているのかもしれない。

アイツらがいないと、目の前の不幸や、どうにも満たされない現状や、思った通りにいかない理由の辻褄が合わなくなってしまうからだ。誰のせいでもないとなったら、それは自分のせいにするしかない。でも全てが自分のせいで、今の悲惨な「今」があるだなんて思うしかないとしたら、それこそ多くの人にとってのディストピアになってしまうではないか。

だからこそ、私たちは最後の魔女狩りをやめられない。

差別者への差別は差別ではないのか。それは地獄の釜を開けるような、終わりのない穴を覗き込むような怖さをまとっているように思えた。

対話から逃げない

わたしたちの社会は今「多様性」の道を選び取ろうとしている。そしてそれは、あらゆる前提が失われた「コストの高い社会」とも言える。

分かり合えない人や、価値観の違う集団は永遠になくならない。価値観というのはそういうもので、究極には折衷案が許容できない世界線なのだ。

多様性とは一見ものすごく美徳だが、そこには共通認識もなければ前提もなく、価値観も合わない歪さだけが無数に残ることになる。当然にそこには摩擦が、どうしようもなくこれまで以上に生まれ続けることになる。

それでも、社会は回っていかないといけない。

だから、私たちはきっとこれまで以上に「言葉を尽くす」必要があるのだと思う。会うたびに、知るたびに、あなたの価値観はなんですかと温度を測り合わないといけない。どれくらいの距離感で、どう接すればいいのかをずっとずっと教え合わないといけないといけない。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーの著者であるブレイディみかこさんの作中で使われていたのが言葉としても記憶に新しいが、相手と同じ気持ちになる、共感するという意味での「シンパシー」はもうとうの昔にその役の限界を迎え、相手の立場や視点を想像するという「エンパシー」への移行が求められている。私たちはその終わりなき作業を、これからずっと、不特定多数とひたすらに繰り返していかないといけない段階へ来たのだと思う。

全ての価値観に対して「認知」はあっても完全に「理解」することは困難を極めるのだから。

多様で自由で、孤独な私たち

こんなにも多様性と、個人と、自由が約束されようとする世界で、なぜか私たちは孤独感に苛まれている。

それはいろんな前提や共通事項が失われた世界で、人と接するためのエネルギー量がこれまでになく膨張してしまったからで、誰かとコミュニケーションを取ることがものすごく頑張らないと上手く回らない、つながり続けることが叶わない世界線に来たからだと思う。

だから世界は、もう一度「村社会」へ戻っていくのかもしれない。

これは知り合いとの、たわいもない会話の中でふと出てきたフレーズだ。多様で多彩な価値観と前提の違う個人を受け入れた結果、私たちはコミュニケーションのサイズをもう一度「村」レベルに戻そうとしているようにも思える。

それは昔でいう原住民の、ひと集落ぐらいの複数家族を束ねた数十人の単位だ。そこではこれまで通り価値観や前提が共有されていて、これまで通りお互いに協力して物を作ったり、そこそこに助け合って生きていく。それを私たちは友達グループと呼んだり、仕事の仲間と呼ぶのだろう。

これまでの歴史と異なる点としては、他を侵略することはないことが挙げられる。とはいえ侵略しないからといっても資源は有限なので、私たちは譲り合いと交渉をやむなくされる。

私たちは自分たちの要求を明確化し、他集落の要求に耳を傾け、双方で適切な距離を測り続け、言葉を尽くし交渉を続ける。そうやってどうにかこうにか、争わずして村へを帰っていける境界線を模索していく。そんな地道で小さな世界へ、社会は細分化され収斂していくようにも思うのだ。

それがいいことなのか、前に進んでいるということなのかという分かりやすい「答え」はハッキリいってどこにもない。ただもう進むと決めたこの道を、私たちはしばらくの間は逆走することが叶わないことだけは明白だ。

だから私は、これまで以上に言葉を尽くそうと思う。

分かり合えない、でも攻撃しないことを約束しようとするこの時代に、私たちができることはこれしかないのだから。あなたと、そしてまだ出会わぬ誰かと、私たちが分かり合えないということを分かり合うその日まで。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃