見出し画像

新社会人におくる、2つの呪いの話。

仕事はじめ。

名残惜しいこちらの気持ちなどお構いなしに、見事な桜があっという間に散ってしまう春の入り口に新社会人になる方々へ。誰だよお前!と自分でも頭の中で突っ込みを入れてしまいそうな気持ちをグッと堪え、思い切り自分のことを棚に上げてこれから言葉を綴ります。

これは、これからあなたに起きる2つの呪いの話。

そして多くの大人が今も悩み、誰もがその渦中で足掻いている私たちの呪いの話。学校を出て新社会人になる方や、もしくはもう一度キャリアを再構築するようなタイミングの方に向け、数年後にやってくるこの2つの呪いについてわたしなりの言葉を書き残しておこうと思います。

何を隠そう、過去にわたしが私自身にかけた呪いであり、同時に今も尚争い続けている呪いでもあるからです。

正直、いまこの話を聞いても「なんか抽象的だな」とか「自分がそんな風になるわけ無いじゃん」と、ピンとこなくて訳わかんないこと言っているだろうなと思うし、きっと数ヶ月後の夏にはこの記事のなんてすっかり忘れて、目の前のものコトに必死だと思います。

でもそう遠く無い未来にやってくる、大きな大きな自分の中の地殻変動があなたを襲う時。頭の片隅で「そういえば、昔変な奴が、変なこと言ってた気がするな」と。いつか暗闇の中で灯りが欲しくなった時に意外と使える、足元を照らすささやかな種まきだと思って、少々お付き合い頂ければ嬉しいです。

そもそもの話、答えのない就活

就職の話をする前に、そもそも日本における「就活」というあまりにも難しい事象について少しだけ話をしておきたい。

日本の就活は徐々に変化があるとはいえ、未だ4月の新卒一括採用が主流となっている。パーソナリティと会社の文化適合を加味し、未経験の人材を一気に迎え入れて一つの会社できっちり育て上げ、雇用を定年まで守り切る。

今聞くと「ホンマ、よくそんなこと出来たな。」という驚きを通り越して、若干というかかなりの尊敬が芽生えてきてしまう気もするが、学校を卒業する手前のセンチメンタルな感傷に浸り切らせてくれないのがこの進路問題だ。今思えば中学校の時の進路指導や、高校の時の大学進路指導もそれに近いものであったように思う。

そして人生の中で3度目やってくる進路希望こと「就活」というラスボスに対峙した時。毎回ご丁寧に降ってくるお馴染みのフレーズ「なぜこの業界を、弊社を希望されたのですか?」を投げかけられる。そしてやっぱり、大変申し訳ないけれど、何度でも私たちは思うのだ。

「いや、わからんがな。」

やりたいことを見つけるのは、超難しい

本当、これは今になって声を大にして言いたいのだけれど。世の中の99.9%の人は「自分が何になりたいか」なんてわからないのだ。人によっては「人に言えるほど、好きなことすらないんですけど」と勢いよく唾を吐き捨てたくなるかもしれない。

年を追うごとに思い知らされるのだけれど、ただ「やりたいことがある」ことは、それも「仕事として具体的に消化できるレベルの解像度でやりたいことがある」というのは実はめちゃくちゃ幸運で、非常に恵まれているケースが多いのだ。大半の人はなんとなく嫌なこととか、死んでも嫌なことはわかるのだけれど、Willを聞かれると途端に困り果ててしまうのが普通だ。

これを詰め込み型の義務教育のせいだとか、日本文化があーだーこうだと色々言おうと思えばいくらでも突く材料はあるのだろう。しかし私自身も30歳を数年過ぎてもなお「これがやりたかったんだっけな〜」と日常の中で定期的に疑問が降って湧いてくる。そしてそれは、22歳で大学を卒業したあの日からあまり進歩がないと言っていいほど変わり映えがないに等しい。

多分「これは絶対に嫌」で、毎日やると病む気がするから自分は「こっちにしておく」。それで良いのかわからんけれど、多分サイテーではないと思うし、自分にできることはしたと思うので、そこに飛び込んでみようかな。

まあこれ、人生で一回しか使えない「新卒」っていうレアな切符らしいんだけど(重すぎるわ)

1. もっと自分に合う場所があるのでは、という呪い

そうして訳もわからないまま、重い重い片道切符に切れ目を入れて4月という季節は始まる。

自分が何をやりたいのかも、何者になりたいのかも、そもそも何者かになりたいのかすら分からないまま会社の入社式に出て、オリエンテーションを受けて、今期の目標設定をさせられる。自分のことも未来も何も分からないのに、目の前の目標だけは淡々とスピーディーに決まっていくから、この時の置いてきぼり感もものすごい。

そうしてしばらくして週5で働くことの忙しさを知り、土日で死んだように眠りこけ、時に寝坊して顔を真っ青にして謝りの連絡を入れる社会人生活が始まるのだ。

4月のちょっとした興奮は1ヶ月もすればすぐに冷めて、自分が思ったよりもコミュニケーションが下手で、舐めていた議事録がうまく書けなくて、会議で話を振られても良いアイディアなんて到底思いつかなくて。ただただ、地味に地味に自分に凹む毎日。

それにお金は思ったより貯まらなくて「SNSでキラキラした買い物報告をしているこいつらは錬金術か臓器売買でもしてるのか」と、コナンくんでも迷宮入りしそうな疑問を深夜のスマホに投げかけるのが日常茶飯事になる。

ここではない何処か、なら

そんな日々を繰り返していると、早いと半年。長いと1年から3年ぐらい経った時に恐らく「自分は、このままで良いのかな」と思い始めてくる。

胡散臭いかもしれないが、これは小さな予言だ。

なんか今の上司と合わない気もするし、会社の文化も思っていたより自分と合わない気がする。ついでに期待していたほど昇給も見込めなくて、なんだか先の見通しが面白くない。しかも大学時代の同期はもう役職が上がったっていうし、SNSで見た〇〇さんはフリーランスになって好きな時に働いているらしい。

みんなキラキラしてて、やりがいを持って働いていて、どうも自分だけしみったれているらしい。

この場所から抜け出したら、自分も生まれ変わるのではないか?君みたいな人材が欲しかったんだよ!と手を叩いて迎え入れてくれる会社やコミュニティが他にあるのではないか?

そんな淡い期待を胸に初めて転職サイトを覗いた時のドキドキと、少しの後悔と、自分が値踏みされる薄ら怖さに浸りながらスマホを叩く。だけれどやっぱり最後のボタンは押す勇気がなくて、諦めて静かに布団に入ったのはいいんだけれど。胸の奥につかえたモヤモヤが取れなくて、もう1時間も眠りに落ちることができずにいる。

もっと、自分に合う場所があるのではないか。

一つ目の呪いが、じわじわと頭の奥を深く蝕み始めていた。

2. 自分にはこの場所しかない、という呪い

次の日、上司に呼び出された。

何かやらかしたっけな、もしかして転職サイトを見ていたことがバレた…?と怒られる材料を探して少しビクビクしながら、テレビ会議に出る。顔の表情を見た瞬間、ぱっと見では怒っている感じはしないので大丈夫そうだと思いながら相手の出方を伺っていると、思いもよらない言葉が降ってくる。

「新しいプロジェクト、君に任せたいと思うんだけどどうかな?」

「えっ」

想定外の言葉に、思わず間抜けな声が出てしまう。日の目が欲しくて焦がれていたはずなのに、いざ目の前にそれが転がり出てくると受け止めるだけの度胸が出来上がっていなかったことに気付かされて、妙に恥ずかしくなる。

「ぜひ、やらせてください!」

わたしは目を輝かせて、いつもより少しだけ大きな声で返事をした。画面越しの上司もどことなく嬉しそうで、この期待になんとでも応えたたいと心に火がつくのを感じた。小さいプロジェクトだけど、自分に任せたいと誰かが思ってくれた。それだけでもう、天にも昇るような気持ちでいっぱいだった。

こんなはずじゃなかった、のに

その1年後。

自分はこれまで以上にしみったれた顔で、ひとりパソコンの前に突っ伏していた。あの「ぜひ、やらせてください!」と啖呵を切ってから随分と時間がたった。そしてあれから、本当に色々な事があった。

プロジェクトは最初こそメンバーも勢いがあって、ものすごい手応えを感じた。これは「何かが変わるんじゃないか」という期待感が膨れに膨れ上がって毎日が薔薇色に思えた。このままプロジェクトは大成功して、自分もメンバーと一緒に大出世して、忙しくも順風満帆な日々が待っているのではないかと、半年前まではそう信じ込んでいた。

でも蓋を開けてみれば、そのプロジェクトは今月で打ち切りだ。

立てた仮説がこと如くハズれ、その度にメンバーの指揮は下がった。予算の底が徐々に見え始めて、本質的ではない取り組みで見せかけの評価を担保せざる終えなくなった。そしてその違和感を感じた面々からは愚痴がこぼれ始め、その矛先がついに自分に向けられるようになった。

最近は随分と気分が重く、あんまり食欲もない。夜は不思議と寝つきにくくなって意味のないネット徘徊が何時間もやめられない。

そんな時、新卒1年目でイキって買った(そして途中で放棄した)手帳が汚い家の机の隅で埃をかぶっていた。ふとそれを手に取り、最初のページ開くと勢いのある字体でこう書き殴られていた。

「ここで成功する!」

あの時、このプロジェクトを自分が受けるべきではなかったのだろうか。同僚のあいつなら、もっと上手くやれたのだろうか。自分は、いったいどこで間違えたのだろうか。きっと次のチャンスがやってくるのは何年も先だ。なんならもう次はないかもしれない。

というか、こんな自分を受け止めてくれる場所なんて他にないだろう。

もう何がなんでも、ここに居るしかない。どうにかして居続けるしかないのだ。そう胸に固く誓って、眠れない瞼を必死に閉じて、わたしは湿気っぽい布団にもう一度深く潜り込んだのだった。

僕らは、呪いを抱えて生きていく

この2つの呪いが酷く厄介なのは、真逆の作用をすることがあるからだ。

呪いを免罪符に「自分にはこの会社しかないから」「ここで成功できなければ終わりだ」と言って、本当はどう考えても休職や転職するべきなのに、極端に思考を停止して心身を殺しながら時間を過ごしたり、文字通り人生を一気に終わりにしてしまうことがある。

もしくは「上司に恵まれなかった」「俺の才能をいかせない奴らしかいない」と毒づいていろんな職場やコミュニティを転々とするのだけれど、実は自分で気付いていない自分自身の落ち度が毎回の引き金となって永遠の負のループに陥ることも珍しくはない。

誰だって自分が間違っているだなんて思いたくないし、世界にはわかりやすい悪者がいて、自分は常に正す側なんだと思い込まなければ人生の大半はやっていられないぐらいの不合理がきっと各々の主観の中では確固として存在するのだと思う。

残念ながら、会社や組織に対する不満は多かれ少なかれ永遠に存在する。なぜなら会社は時代に合わせて変化するし、我々自身も変化するからだ。

最初はピッタリと合っていたのに、時間が経つごとに軋み出すことなんて日常茶飯事だ。それが嫌で転職し、ひとつの穴が埋まったと思ったら今度はまた別の穴が異常に気になったりもする。もはや行きたい会社がない!今の社会のルールが嫌だと思って自分で会社を必死に作った数年後に「うちの会社、環境も待遇も悪くないですか」と、いつしかの自分みたいなことを言ってくるメンバーが現れて世界がタイムリープしている錯覚にクラクラすることもあるだろう。

呪っているのは自分なのか、はたまた都合よく呪いに逃げているのか。

これは本当に曖昧で、見極めるのはものすごく難しい。渦中にいるとどうしても近視眼的になってしまい、必要以上に自分のせいにしたり、必要以上に人のせいにしたりしてしまうのが人間だ。運よくその場で呪いに気づくこともできれば、数年経った後に「あの時、そういえば呪われていたな」と己のミスに気付かされることもある。

残念ながら私自身も、未だこの呪いを完全に消し去る方法は見つかっていない。

呪いをかけられたり、自分自身を呪ったり、都合よく呪いに逃げ込もうとする自分の尻を勢いよく蹴飛ばして、何度も正気に戻させる荒技を繰り返しているのが現実だ。決して人に誇れるようなものでもなく、道なかばの私も未だ煩悩と怠惰と、疑心暗鬼の塊そのものである。その中でみんな死なないように、でも少しでも人生を面白くしたり、幸せになりたくて足掻いているのだと思う。

BestではなくBetterを模索する

なんとなくで選んでも、面白そう、自分にはこれだ!と思っても、その周りには些細な嫌なことが無尽蔵に湧いてくる。チームの中でとても扱いづらい人がいる。そしてそれを、時に全部を放り出したくなるような最低な日も必ずやってくる。

そんな不完全で不確かな中、私たちに唯一できることと言えば「BestではなくBetterを模索する」ことなのかもしれない。

天国みたいな最高な状態はどこにもないかもしれないけれど、多少の粗を受け入れる。むしろその粗を自分の手間や時間をかけてでも解決したいと思える人や場所に身を置いて、自分の手間と労力をかけていく方が健全で案外にも楽しくなったりもする。

あとはそれを、どれだけBetter and Better「良くなる方向」に自分で持っていく事ができるか。

機械のメンテナンスをするように日々油を差し、毎日状態をよく見て、明らかに壊れそうな部分や合わない部品があれば修理に出したり休めてみる。そのために日々の面倒や、地味で嫌なことに対して丁寧に向き合えるかが意外にも、先々の自分を助けてくれたりすることもある。仕事のコツは数度の大きなホームランを狙って打つことではなく、日々の中でちょくちょく現れる四葉のクローバーをコツコツ集め続けることなのかもしれない。

それでも自分の見つけた小さなBetterが、あまりにも大きなBadに飲み込まれてしまうこともある。

世の中にはびっくりするような悪や、自分との相性が引くほど悪い人や環境は確かに存在する。そのBadに自分の全てが壊されてしまいそうになるなら、その時はたぶん一目散に逃げ出した方が良い。

でも、最後にもう一つだけ伝えたい。
逃げときを見極めるのは、実は死ぬほど難しい。

なんなら、好きなことを見つけることより難しいかもしれない。なぜなら楽だから。呪いを言い訳に、いくらでも撤退命令を出すことは可能だから。傷付かず、疲れず、責任も負わず、宝物のように自分を扱うことは我々の本能が許しているから。

誰かを不必要に苦しめたいわけではないので釘を刺しておくと、本当に逃げた方がいい場面は実際ある。でも、それは本当にそれは分かりにくい。人生の中には失敗も成功も含め、何かを経験したことによって自分の皮が剥けて明らかに成長し、後々から色んなことが楽になる「奇跡の瞬間」が混ざっている。そして本当に光のない暗闇と、奇跡の出口につながる暗闇はパッと見では区別がつかない事がほとんどだから本当にタチが悪い。

間違いなく初見殺しの不親切な設計だ。もしこれがゲームだったら、消費者からは多量のクレームが入っていることだろう。

でも残念ながらこのクレームは入れたくても、お問い合わせ窓口はどこにも存在しない。唯一、私たちにできるのは「2つの呪い」に何度も陥りそうになりながらも必死に我に返り、丁寧に自分の中にある違和感や戸惑い、本当に求めている根っこの声に耳を傾けること。

それと同時に、自分を直接的、もしくは間接的に殺そうとしてくる明らかな悪意からはできるだけ距離をとること。この3つは一見、あまりに似ていて最初は見分けがつかないということを繰り返し思う出すこと。

そういう地味で華のないことが、この先に訪れる暗い足元を照らす「何か」になれば嬉しい。

おわりに

もっと華やかな言葉と、愛と勇気と好奇心が溢れるようなフレーズで船を送り出してくれよ、ここまで読んでくださったあなたは思うかもしれない。

私だってそうしたいのは山々だが、自分自身が今年で社会人10年目を迎える節目に「もし、10年前の自分に言葉をおくるとしたら。」と思ってこの文章を綴った。その結果が、このなんとも夢のない、スカッとしない文章になったというわけだ。

我ながら書いていて、ひょっとするとこういうのを「要らないお節介」とか、あまり好きではないが最近での言葉で「老害」と言うのかもしれないなとも思ったが、多分この話は自分自身にもボディーブローのように40歳、50歳と歳を重ねた時にやってくる気がしている。だからこそ、あえて4月の最初にわざわざ必死に筆を取った。

社会に出ると、想像以上に面倒で地味な毎日にびっくりすると思う。

漫画やドラマはやっぱりフィクションで、私たちの背中には分かりやすく「ドドン!」といった効果音は描かれない。だからこそ自分の言葉ひとつ、先輩の言葉ひとつ、会社の変化をとってみても丁寧に観察して、対処する必要がある。

来年の春には地味でパッとしなくて、何だか自分だけしみったれていると惨めな気持ちになるかもしれない。大丈夫、と言っていいのかわからないが。想像するよりも周りの大人や先輩も地味でパッとしなくて、自分だけしみったれている気がしているような気持ちに抗いたくて日々を過ごしていたりする。ずっとペースは一定でいるのは難しくて、めちゃくちゃ走ったり、一歩も歩けなくなる日もある。

それでも、Betterを探して。

今日という日が何でもない、でもいつかの自分の分岐点になるかもしれない1日でありますようにと、そう願いを込めて。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃