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山岡鉄次物語 父母編4-3

《若き日の母》悲報

☆珠恵は戦争による悲しい知らせに涙する事になる。

昭和16年に始まった太平洋戦争で、日本軍はアジアの各地で快進撃を続けていた。

マレー作戦は昭和16年12月8日、太平洋戦争で山下奉文陸軍中将率いる日本軍が、英国などの連合国軍を相手に実施した南方作戦で、英国領マレー方面の戦いだ。
太平洋戦争において全ての作戦に先行して行われた。
シンガポール島攻略を最終目標にしており、昭和17年2月に勝利して終わった。この最終目標がシンガポールの戦いだ。

日本軍のシンガポールの戦いでは少ない兵力で、難攻不落とされていた要塞を10日ほどで攻略、勝利した。
英国軍は約5千人の死者、約8万人の将兵が捕虜となったが、日本軍にも1,700人超の犠牲者が出ている。

そんな中、珠恵が身を寄せている姉清子の夫が、シンガポールの戦いで戦死したとの報せが届いた。

何の悪戯か、清子のお腹には夫の子が育っている、我が子の顔も見ずに、夫は逝ってしまったのか。
清子は納得出来ずにいた。

清子の夫の墓は塩川市出身の軍人として勲功を讃えられ、立派な墓碑が建てられた。
戦況有利な頃は戦意高揚の為なのか、町が建てたものだった。

清子の夫、中越家の菩提寺は塩川市にある日蓮宗寺院の法蓮寺である。
ここには珠恵の両親も眠っている。
寺院の墓地には、中越家の墓と珠恵の父母小澤家の墓が並んで立っている。
塩川駅の北東側に位置した、規模の小さい質素な寺院である。

中越家の先祖代々の墓地とは別に、本堂正面に向かうと手前右手に、立派な墓石が建っている。
その墓石には「兵伍長、勲七等・功七級中越正一之墓碑」と刻まれていた。

清子は夫の戦死を覚悟していたが、いくら軍人として立派な墓碑を建てられようと、残されたものの心は救われないと、珠恵にすがって泣くばかりだった。

夫を亡くした清子は半年後に、夫の生まれ変わりのような、長男正二を産んだ。
清子は子供をかかえて、この先どのように生きて行ったら良いのか、途方に暮れるのだった。


昭和18年、日本軍の戦況に暗雲がかかり始めた頃に、珠恵の一番上の兄勝義は、日本軍の進駐していたビルマで負傷した事により破傷風になってしまい命を縮める。

ビルマ(今のミャンマー)は英国が植民地支配していた。
昭和16年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は植民地支配に苦しむビルマを解放するとの名目で進軍した。
日本軍は連合国の中国支援ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じてビルマ全土を制圧したのだ。
連合国軍は一旦退却したが、昭和18年末以降、英国はアジアにおける植民地の確保のため、米国と中国は支援ルートの回復のため、本格的に反転攻勢に出た。
日本軍はインパール作戦を実施して、その機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。
連合軍は昭和20年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。
無謀なインパール作戦で、日本兵の戦死者は18万人に達した

勝義は日本軍がビルマを制圧した後、昭和17年の暮れに、内地に戻された。
しばらく甲陽市にある陸軍病院に入院していたが、翌年、破傷風の十分な治療を受けられないまま戦病死してしまった。

勝義が、もし健常でビルマに残ってもインパール作戦の犠牲になっただろう。
結局命を落としたが、内地の病院で家族と対面出来たことで、少しは救われたのかもしれない。

珠恵が幼い頃に世話になった事のある兄の家は塩川駅の北側にあった。妹たちは兄の家に集まり、涙をこぼして勝義を送った。

珠恵と歳の離れた長兄の勝義は父の代わりをしてくれた、心の広い優しい兄であった。

親の無い珠恵たちは、再び父親を亡くしてしまったような辛い悲しみに打ちひしがれて、いつまでも涙が乾くことはなかった。



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