見出し画像

国生み神話の淡路島を守る「洲本城」をご紹介

瀬戸内海に浮かぶ淡路島。
離島の中では最大の人口を誇るこの島は、日本最古の歴史書「古事記」の冒頭にも出てくる「国生み神話」にも登場します。

おのころ島で夫婦になったイザナミノミコトとイザナギノミコトが日本列島の島々を次々とつくっていきますが、その中で最初につくられた島がこの淡路島。
そう考えると、めっちゃスピリチュアルな島ですよね。

そんな神秘的な島を守る城のひとつとして後に築かれたのが、今回登城した「洲本城」です。

天守台に登ると眼前には紀淡海峡を見渡すことができ、その最上段には日本最古の模擬天守が観られます。
ただ、それと同じくらいに感動したのは、その途中で目にした素晴らしい石垣や石段。

これには目を見張るものがありますので、ぜひ一度は登城みてください。

そんな洲本城ですが、三熊山一帯に建てられたことから別名は「三熊城」。

室町時代に、安宅治興によって築城されました。安宅家は、元は阿波守護の細川家に従属していたものの、三好長慶が主家の細川家を討ち畿内に勢力を広げるとそれに臣従しました。

後にこの安宅家は、三好長慶の弟の冬康を養子に迎えますが、まだこの頃の洲本城は安宅家が本拠地としていた由良古城の支城のひとつでした。

安宅冬康は、引き継いだ淡路水軍を統率し三好政権を支えますが、1564年に兄の長慶に飯盛山城へ呼び出されると、そこで自害させられたといわれています。

冬康の死後の家督はその子が継承し、「第二次木津川の戦い」では、織田方の一員として毛利水軍と戦い勝利しました。

しかし、その後は毛利輝元に内応したため、織田信長の命により羽柴秀吉らの軍勢攻められ由良古城を降伏開城します。

1582年に織田信長が本能寺の変で死去した後は、羽柴軍がこの淡路島や小豆島の守りを固めて制海権を維持するとともに四国の長宗我部軍を牽制しました。

その時の軍功により仙石秀久に淡路国5万石が与えられると、秀久は大名となり洲本城へ入城を果たします。

秀久はこの城を拠点に、淡路水軍を中心として小西行長ら複数の水軍も統括し、その後の紀州征伐や四国攻めでも活躍しました。

豊臣秀吉より讃岐国が与えられた仙石秀久が高松城へ移ると、それに代わり脇坂安治が淡路国3万石を与えられ洲本城に入ります。

安治はその後24年間、洲本城主として淡路国の統治を行いますが、この間城には天守がつくられ、石垣の大規模に改修も行われました。

その際に設けられたのが「登り石垣」です。(写真1〜3枚目)

安治の朝鮮出兵での倭城の経験が生かされ造られました。
洲本城の登り石垣は、本丸の西側の斜面にみられ、階段状に築かれるなど独特な構築方法が特徴的。

立派な登り石垣でしたので、洲本城へ行かれた際は必見です。

江戸時代に入ると、安治は伊予大洲城へ転封となり、洲本城は一時藤堂高虎の預かりとなります。

1610年には姫路城城主の池田輝政の三男、忠雄の領有となりますが、洲本城には入らず由良城を築城し淡路国の本拠としました。

しかし後に忠雄が岡山藩主を継ぐことになると洲本藩は廃藩となり、淡路国は徳島藩主の蜂須賀至鎮へ与えられました。

蜂須賀家は筆頭家老の稲田氏を由良城の城代として置き統治を任せますが、稲田氏は交通の便が悪い由良城を廃し、再び洲本城を本拠としました。

この移転は、1631年から約4年をかけて城下町ごと大規模に行われたため、後に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれました。

現在ある模擬天守は、昭和天皇の即位式を記念して鉄筋コンクリートでつくられたもので、模擬天守としては日本最古のものとなっています。

この記事が参加している募集

最近の学び

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?