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【掌編】逆撫アザラシ今何処

文化祭と言えば、桂木先生の個展だ。
クラスや部活動の催しにも参画はしたが、思い返し、まず浮かぶのは、あの写真展である。

桂木先生は数学教師で、小柄でやや肥満気味、男性にしては長めのおかっぱ頭の下、アザラシのような童顔が貼り付いた人だった。中年ながら愛らしい外見に加え、温和な性格から、生徒からの人気も高かった。

そんな先生が空き教室をひとつ貸し切り、個展を開いていることを、僕は文化祭当日に知った。華やぐ校内をぶらつく中、窓が黒幕で塞がれた一室があった。入り口近く、白地の立看板に細い明朝体で、タイトルであろう英単語と、それが先生の写真展であることを示す短い言葉が記されていた。

先生がカメラを嗜むなど初耳であり、興味本位で中に入った。教室は狭く、四面を覆う形でパーテーションが設置されていた。白い布が被せられたそれらに、額縁に入ったもの、キャンバスにプリントされたものなどが、点々と展示されていた。

写真はどれも白黒だった。被写体は様々で、廃屋の中で横たわる猫、陽の光に長く伸びる男女の影、並んだ鉛筆の先端など。そのどれもにタイトルらしき一言が添えられ、写された画を一層味わい深いものにしていた。

腕の良し悪しはわからない。しかし、いずれの作品にも通ずる世界観があり、それがこの空間を『写真展』足らしめていた。高校教師の手慰み、という色は無く、一人の表現者の存在を感じさせる展示に思えた。

こんな生き方もあるのか。そう思った。

僕にも表現への嗜みがあった。ちょうど自分の趣味を仕事に活かすか、進路に迷っていた頃だった。自負している才能、傾けている情熱。それらが生活を賄うに足る金を稼げるものか、自信がなかった。そんな中、新たな選択肢に視界が拓ける思いがした。

壁沿いにぐるりと部屋を巡り、最後の一葉に。ポラロイドカメラで撮られたそれは、不躾にも画鋲ひとつで固定されていた。黒板を背にした教卓の上、真白いチョークが破片を散らし、二つに折られている写真だった。

『僕は天才だ』

余白の文字に、背筋が凍った。
タイトルと被写体が示す意味。この画を撮るため、カメラを携えた先生が淡々と準備をする姿を思い浮かべ、狂気染みたものを感じた。

逃げられないんだ、と思った。

人生を賭けた生業として打ち込み、世に認知され、名を馳せる。何もそれだけが自己実現の道ではない。
そんな悟りを得たつもりが、違った。

才能も情熱も、あると信じれば、その実在を確かめずにはいられない。
自分のそれらが価値あるものと、証明せずにはいられない。
生きることの中核をそこに求める人種にとって、その衝動を手放すことは叶わないのだ。

アザラシというのは、実のところ非常に凶暴な動物らしい。
僕はその日、桂木先生のそんな本性に触れた。選んだ平穏に絶えず逆撫でされ、唸りを上げる獣の部分。僕らはそれを飼い慣らさなくてはならない、と学んだ。

先生が今どこで何をしているか、僕は知らない。


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この作品は、こちらの企画に参加しています。

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