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【GRⅢx】わがままを言える距離感。

「kahocoちゃんと居ると嫌な気持ちになることが無い」と昔、言われたことがある。

その頃は褒められた!と思って喜んだし、そう或ることが正義だと思っていた。ただ、今思えばその言葉は、私が先回りして相手がして欲しいことを探して提供していたからこそ生まれたのだと思う。そして誰からも嫌われないようにニコニコへこへこしていたから。嫌われることがこの世の何よりも恐ろしいと心のどこかで思っていた気がする。
ただし八方美人でいることはとても疲れる。誰彼かまわずニコニコへこへこ。体力と気力と余裕がないと出来ない。その頃は20代で「何でもやってやるぞ!」「頼まれごとは試されごとだ!」と自己啓発本の言うことを鵜呑みにしていた。

私の個人的な見方だけど、特に教員は何でも屋になりがちな職業。その中で多くの人が「善意の搾取」をされている気がする。部活なんて善意がなきゃ成り立たない。時間外労働は当たり前。土日も両日引率だってざらにある。割り切って働かなきゃ保護者も生徒もプライベートな時間まで踏み入ってきてしまう。踏み入られないように「ここまでしか出来ません」「これは私の仕事じゃありません」というポーズを取れれば精神衛生を保てたんだろうけれど、私はそう出来ない質で、みんなみんな受け止めようとした。それがいいことだと、自分の成長のためだと信じていた。でも、それは的外れな頑張りだったことに休職してやっと気づけた。

自分の許容量を見極めて、それ以上は拒否すること。今ならそれが大事だとわかる。互いの心地よい距離感を保つためには、「出来ること・出来ないこと」を適切に伝える必要がある。

そうは言っても、やはり私は嫌われたくないと思ってしまう。だから、相手が「気を遣わなくていい」を体現してくれるとすごく安心する。例えば、鮎釣りのおじさん達。(75オーバーだからおじいちゃんか…)いい意味で超自己中なのだ。嗚呼、私も好きなようにしてやろう!と振り切れる。この前もこんな場面があった。

おじさんが「トマト食べるか」と差し出す→私はその場でむしゃむしゃ食べる→私が食べ終えるのを待ちきれず、そろそろと車を運転し出す。待てないおじさん。「え、自分でトマト差し出しといて食べるの待ってはくれないんかい!」と思うけど、それさえも今は心地よく感じる。この人は自分の欲求に素直なんだな…(せっかちなだけなんだけど)と笑えた。

だから、私も【疲れた!帰る!食べたい!また釣りたい!来週連れて行って!】…そういう要求を感情全開で投げられる。わがままは迷惑なこと思っていたけど、要求を伝えることはわがままでも何でもない。もちろん相手を傷つけたり無理を強いることはダメだけど!
自分だって心許した人のちょっとしたわがままなら頼られて嬉しい、可愛いと思う。おじさん達が私を可愛がってくれていると感じるからこそのわがまま放題。それが今は心地よい。来年も甘えていくぞ〜

私のことを大切に思ってくれる人と心地よい距離感の下、細々と繋がって生きて行きたい。自分の心の声を掬い上げて過ごして行くぞ。

美味しくいただいた鮎