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猫になりたいけれど、残念ながら霊長類に生まれました

 猫っぽいね、とよく言われる。
 「気分屋だね」、「人を振り回すね」、「自分勝手だね」、ということをオブラートに包んだ上で、丁重に熨斗をつけて贈られた言葉だと思っている。別に言いたいことも言えないこの世の中にポイズンしてもいいが、特段相手に嫌われようと思わなければ、こうやって優しい言葉に包むことも良いだろう。

 しかし、どんなに猫っぽくても、猫にはなれない。
 高いところから落ちれば骨折もするし、誰から見ても可愛い(個人の感想です)容姿で、そして群れをつくらないで生きてはいけない。

 そう、群れをつくらないでは生きていけない。
 別に高いところからは脚立で降りるし、自分の顔は万人受けしないが、アラサーにもなってくると自分の顔は見慣れてきたし、この角度ならOKみたいに思えたりと肯定できるのだ。しかし、一人で生きていくことはできなかった。

 私は、友人関係にも仕事上での上司や後輩との関係にも、はたまた恋愛関係にも同時期に疲れたことがある。
具体的に記載すると、幼稚園時代からの友人にずっと嫌いだったと言われ、部署異動をして新しいチームに馴染めず、当時の婚約者から婚約破棄を言い渡された。
 これは1年の間とかではない。2ヶ月の間に起きたことだ。

 よくメンタルを壊さなかったと言われるが、普通にメンタルは崩壊した。
 心療内科では「自律神経失調症」と病名が下され、薬を飲んでいたこともある。

 いや、よくそれくらいで済んだものである。
 東尋坊あたりで下見をしていてもなんらおかしくはない。

 その時に、猛烈に一人になりたいと思った。というより、人間関係がしんどいのだから誰ともかかわらずに一人で生きて一人で死にたいと思ったのだ。
 だから、できるだけコミュニティは広げず、誰かから誘いがあっても断り、小説や映画と言った物語にも触れず、もう淡々と食べて寝てお風呂に入って散歩するくらいで、仮想上でも机上でも人に関わらないようにした。

 すぐにさみしくなった。しかし、メンタルを乱されたくなかった私は、徹頭徹尾誰かといることを拒否した。やはりさみしかった。
 そして、私はネットの海の中で孤独に生きる人たちのブログを読んだ。
 しかし、この時点で、すでに群れを作ろうとしていたとブログを読み終えた瞬間に思った。「人と関わりたくない」人とのある種のコミュニティだ。
群れとは、コミュニティとは、双方向の会話だけでなくても成り立つものだと思う。誰かの考えや物語を一方的に受け取るだけでも、それはひとりではなくなるのだ。本当に一人になりたいならばやはり山奥にこもるか離島で誰とも話さずに暮らすしかない。

 それができない私はなんて寂しがりや何だろうと思ったが、よく考えたら、もう遺伝子上仕方ないものだと最近悟り始めた。
 だって哺乳類に生まれたんだもん、である。

 哺乳類は、群れを作って生きていく。それはもはや遺伝子が決めた構造だ。一方、ネコ科の生き物はライオン以外、群れをつくらないで生きていくことが普通である。
 世の中はITの発達やら何やらで便利になっているが、別に私たちが霊長類であることは変わりない。だから、何かの群れにいることは普通で、寂しがり屋ではない。もう、脳の設計である。仕方ない。

 しかし、その中でも現代社会はいいなと思う。
 識字率も低く交通の手段が限られていたら、おらが農村コミュニティくらいしか選ぶことはできないだろう。しかし、本を読むことが出来、ブログも発信出来、仮想世界でもいいし、何かのボードゲームとかのコミュニティで人と話してもいい。

 昔の方がよかったという人も多い。
 そのほうが対面で温かさがあったと。

 そういう意見もいいと思う。ただ私は、全てが対面であったら絶対に疲れてしまう人間である。
 疲れればtwitterでミュートしてもいいし、会いたければその人に会いに行って体温を確かめてもいいといった、そういったケースバイケースで群れの中で発言したり、聞いていたり、ネットのフィルターを通したりしてコミュニケーションをとっていたい。

 霊長類の中でもコミュニケーションで疲れる人と疲れない人がいると思う。
 それはコミュニケーションの上手下手とは異なる。

 私はどうしても対面ばかりだと疲れるので、現代日本に生まれてよかったと思うのだ。

 しかし、一人で生きて何にも心乱されずにも生きてみたい。
 もし霊長類が猫科になれる薬があったら即座に呑んでしまう。それくらい、さみしいけれど、誰かといることもつらいのだ。
 当方、やはり猫になりたいことを確認した霊長類である。

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