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何かをするのには、ちょっとの「勇気」も必要ない。

《「はじまりはいつも雨」を語ろう。》

こんなタイトルの企画をこのnote、そしてTwitter上で開催してみたのですが。


自分で言うのはなんですが、かなり感動的な展開のお祭りになりました。

最初は、私がSNSで繋がっている人だけの参加で終わるかもなぁ、という予想だったのですが、3/6の当日は予想をはるか超え、一時は皆さんと共有したハッシュタグ「#はじまりはいつも雨を語ろう」で、Twitter上の日本のトレンド入りまで果たすことができました


そして何よりも、そこにASKAさんが加わって下さったこと
ご自身でも、いつもはアーティストとして「曲の解釈は聴き手の想像に委ねる」というスタイルを貫き、ご自身でその意味を語らなかった歌詞の意味を、一つのブログ記事にして下さった。

そして、Twitter上で参加して下さったほぼ「全て」の方の、何百件かわからない投稿を読み、その全てに「いいね」を下さったのです


私はその奇跡のような広がりを目の当たりにし、まぶたの裏にあの光景を浮かべました。
何度も観たライブ映像のラスト、幕が閉まる直前までステージの左右を歩き回り、マイクに入らぬ声でおそらく「ありがとう」とつぶやきながら全員に目線を合わせるようにして手を振る、あのASKAさんの姿。

ASKAさんがTwitter上で一人一人にハイタッチされている数時間は、リアルにライブが開催できないこの今において、本当に魔法のような時間でした

こちらは、このイベントを最初から最後まで、参加という形で見守ってくださったyoshimiさんの記事です。
私の気持ちまでしっかりと汲み取って下さり、本当にありがとうございます。


イベントが終わり、いろんな方から頂いた言葉の中に「勇気」というものがありました。
よく勇気を持ってやってくれました、と。

そう受け取って頂けることは、本当にありがたいと思っております。

そしてその言葉を受けて思うこと…これらのお声を否定する気持ちは当然1mmもないのですが、実は私は今回の企画で「勇気」を使ったという実感が全くなかったのです。
だから、そうかぁ、勇気があるように見えるのか…と、ぽかんとしてしまいました。

そこで今日は、なぜ私が「勇気」を使わずにこんなことをやってみたのか、それについて書いてみたいと思います。
そして、これから同じようなことをされる方にも、行動するのに「勇気」なんて必要ないですよ、ということが伝わればと思います。

自分語りの記事になってしまうと思いますが、センチメンタルにならないように書きますね。
ご興味ある方は、ぜひよろしくお付き合いくださいませ。

●こうやって私は、社会とのつながりを無くしていった

私は、ずっと無職でした。
そしてそれが、私のコンプレックスでした。
社会において何者でもない、そのことが不安で嫌でたまりませんでした

22歳の時に大学を、自分で言うのもなんですが良い成績で卒業し、マスコミ業界に就職した。
順風満帆っぽいですよね。
ですが、その会社をたったの1年で辞めてしまったんです。

マスのコミュニケーションというのが、そもそも肌に合わなかったんですね。
そこ、就活の時に調べとけよ!という話ですが。
それまで比較的苦労せずに送ってきた半生だったので、どれを選んでも自分なりにうまくやっていけるだろう、という甘い気持ちでした。

ボロボロな気持ちになって、迷惑かけながら、恥かきながら辞めることになり、当時実家暮らしだったので親にも言えず、バレないように出社する時間に家を出るという、完全に失職したことを家族に言い出せないリストラ・スタイル。
結局保険関係の書類が家に届いて、「あんた、これ何!?」と大問題になったわけですが。

それからはどこに居るにも肩身が狭く、心の休まることのない日々だった。
その時のことを、昔noteにチラッと書きました。


この時期に唯一、これをやってる時間は集中できるというのが、散文詩や小説の真似のようなものを書くこと、それについて勉強している時間でした。

でも長いものを書く技術が、私の力では習得できなかった。
腹が据わってなかった、というのでしょうか。
仕事を辞めて、自分はどこにも属さず生きて行くんだという呆然、漠然とした気持ちに押されるようにして、とりあえず誰かに認められなければ、それには賞レースに参加したり、出版社に持ち込んだりしなければ、という焦りがあった。

誰かの目に止まるような書き方をしなければ、という邪念で、数年続けていましたが、結局書く意味を失ってしまった
27の時だったでしょうか。

その時は働いてもいましたが、会社にいるときは「私には小説があるんだ」という気持ち。
家で書いているときは「私には一応仕事がある」という気持ち。
この、どっちつかずで絶対にうまくいかないパターンに終止符を打ち、私はこの時に、書くことも仕事も辞めました。

ちょうど結婚したばかりの夫がフリーランスとして駆け出しの頃で、おいおい、二人でこの先どうすんだよ!?状態だったため、そちらを手伝うことに精を出すようになりました。

●書くことを「仕事」にしようという執着に苦しんだ

今振り返ると、そんな簡単なことをなんで乗り越えられなかったんだ、いくらでも道はあったじゃないか、と思うのですが…

言い訳みたいになってしまうかもしれませんが、あの頃は時代的にも、個人が何かを書こうと思い立っても、アウトプットの場、そこが自分の場所だと自信を持って書ける場が少なかったようにも思います。

書きたい、と思った時に、選べる選択肢が少なかった。
編プロでライターになるか、自分の力で作家になるか。
よく探せばもっとあるのでしょうけれど、私はその二つしか知らなかった。
まず下積みで努力して、という風潮が少なからずあったように思います。

この努力を早々に放棄したのは、きっと私が本音の部分では、「本当はこれを『仕事』にしたいわけじゃない」と思っていたからだと思うんですよね。

いやぁ、すごく生意気だ。
これらでちゃんと生きていくのは、一度はやってみようとチャレンジしてすぐ挫折したのだから、すごく大変なことがわかります。

当時、恐れ多くて誰にも、それこそ親友や家族にすら言ったことはなかったけれど、実は私がずっと持っていたのは、「ただ自分の中にあるものを表現したい」という、それだけの気持ちでした。
今振り返ってみれば。

この世の中、日本語を使う人は1億人以上いるのだから、好きなことを好きなように書いても、どこかで誰かに深く刺さるだろう。
そういう根拠のない自信だけはなぜかあり、そして本当は「書くことを仕事に」でもなく、たったそれだけのことをやってみたいがために、日々ウロウロし、焦燥や挫折感を感じていたのでした。

ただ表現したい。
それでは生きていけなさそうだから、それを「仕事」にすることに執着していたんですね。


もちろん、仕事にしない方法…個人で自由に発信する場も、当時からありました。
ブログという手も試してみたのですが、あの頃、’00年代というのはSNSの黎明期。
どうしてもそこに広告が挟まったり、純粋に「読む人」以外のことを考えなければ成り立たないのですよね。

広告的にしなくてももちろんいいのですが、やはり広告の力というのは絶大で、同じ土壌で表現していると必ずその下に広告に響かないものは埋もれてしまい、意味を失ってしまう。
それはブログ運営自体の収益構造がそうなのだから、仕方ないですよね。

そんなことから、私は書くことに完全に興味を失ってしまったのです。
いやぁ、若かったですね。

自分で読み返すための日記すらつけなくなりました。
文章を書こうとすると、頭が重くなる。
書くことが、本当に嫌いになってしまったんですね。


●「noteは肩書きでなく、信頼が価値になるから」

それから、家の仕事を支えることに精を出し、のちに子供も生まれ、今度は子育てに精を出すことになりました。

まあ、これもアップアップするわけですが…
私、本当に不器用なんでしょうね。
どれをやっても、きっと私の器はペットボトルのキャップくらい小さい。
どんな風にアップアップしたかは、一番最初のnote記事に書きましたので、ご興味ある方は読んでみてください。


そして、書くのをやめてからだいぶ時が経った、'18年の年末でした。
夫に勧められたのです。

「君、noteやってみたら?」と。

彼の話によると、noteの仕組みは画期的で、既存のブログのように収入を広告に頼っていない。
広告が表示されないし、ブログでありがちなランキングもない。
かなりシンプルな構造になっているので、ただ書きたい君のような人にはぴったりなんじゃないか、と。

その時に、彼は言ってくれました。
「君のように、人に語れるキャリアのない人の方が、信頼を集める時代がきっとくる」
「noteは肩書きでなく、信頼が価値になるのだから、今のうちから君の中のものをしっかりと貯めてアーカイブしていったらいい」
と。

うーん、そんなもんかな。
意識高いこと言うなぁ、くらいの感覚で当時はいました。


noteを試してみると、確かにいい。
私、質素で素朴なものが好きなのです。
ブログのようにキラキラしていなくていいので、noteのようにシンプルな、ただ書いたものだけがどっしりと貯まっていくような…

そして、そういうことに興味のある人が、読み手として集まりがちであろうところも気に入りました。
つまり広告とか人気とか気にせず、いいものを書きたい、読みたい、という人達ですね。
正直なコミュニケーションを求めている人達、ということでしょうか。

そんなわけで、noteを始めるために、ほぼ10年ぶりにまた人に見せるためのものを書き始めることになったのです


●私の「できること、できないこと」を正直に見せる

その当時から、私の中に渋滞していたのは、ASKAさんの歌詞への思いでした。
なぜASKAさんなのか…は、この記事に書きましたので、ご興味ある方は読んでみてだくさい。


noteにASKAさんの歌詞についての様々な記事を書きながら、自分の中で確かになってきたことがありました。
それは、
自分のできること以上のことは、やらない」ということ。
そして、
自分のできると思ったことは、全力でやる」ということ。

私の書く記事は独特だとよく人に言って頂けますが、それはこの二つを常に意識している(せざるを得なくなった、が正しいかも…)からではないかと思います。

自分のできないこと。
それは、データを使った正確な分析や、皆さんの役に立つ情報が詰まった記事を書くこと。

では、自分にできること。
歌詞の中に深く潜り、直感的に掴みだしたものをなんとか一本の記事にまとめ上げること。
あとは、実際に何かやってみるのも大好き。
田原俊彦さんのダンスに感動を覚えた時には、こんな体験記事を書いたりもしました。
音楽家の野井洋児さんとの出会いが生まれたのも、この記事を書いたからでした。
やっぱり、動くことはいい連鎖を生みますね。


私はこの、「できること」に必要な場合にはデータや資料、もしくは人に聞いたりと、情報にしっかり当たるようにしていますが、普段から全てを完全に把握しようとは思っていない。
それは、できないから。
やっていると辛くなるから、自分の能力に余るものだからです。

だから私の記事は、結構いい加減なところもあります。
これは自分の短所。でも、この短所は隠さないようにしています。
背伸びしないで、自分を大きく見せないでできることを、全力でやっていく。
これがnoteにおいて必要なんだろうなと思っています。


●信頼の土壌ができたことを実感した

こういう書き方をしているうちに、有難いことにTwitter上で色々と繋がりが増えてきました

私をフォローして下さってる方は、今回の企画以前には大体800人に満たないくらいだったと思いますが、その中でも常に40名くらいの方が、私の日々発する言葉をしっかり受け止め、反応して下さることが、長くコミュニケーションを取るうちにわかってきた。
40人というのは、具体的に誰々、というわけではなく、入れ替わりながらも大体それくらいの方が見て下さってる、という実感の数字です。

800人中の40人というのは、20人に1人ということ。
この実情を把握していると、Twitterの海の中で、とても良いコミュニケーションが取れているな、という安心感があります。

そして40人という人が集まれば、大体学校で1クラス作れる規模なわけです。
1クラスあれば、金八先生のようなドラマを生むこともできるし、世界制覇とかの野望系以外は、本当になんでもできる人数だと思うんです。

私が今まで、短所も隠さず正直に書いてきたnote記事により、正直なコミュニケーションが通じる方々40人と、ありがたいことに繋がれるようになってきた。
これが、何よりの私の気持ちの上で、「勇気」を使わずに済む土台になっていました。

ここまで、ちょうど2年くらいです。
noteに私の等身大の気持ちを貯め、そしてこのTwitter上のコミュニケーションにおける信頼関係を作っていけた2年だった
この期間に得た手応えが、今回の企画を始めるのにすごく大きかったと思います。


●エッセイを一緒に書こう、というお誘い

ある時、確か昨年の11月あたりだったでしょうか。
とあるASKAさんファンの方が、「同じタイミング、同じテーマで記事を書きませんか?」と声をかけて下さったのです。

これに私は、二つ返事でOKしました。
なぜなら、歌詞の考察記事を書き続けることで、ある種の息苦しさを感じていたから

歌詞というものは、ASKAさんも常におっしゃっている通り、完全に受け手一人一人のものです。
私が受け取った感触というものは私だけのものであり、他の方と重なる場合もあれば、重ならない場合もある。

歌詞の考察という分野に取り組んでいる人は案外少なく、多くの人が参照する考察の絶対数が、世の中には少ないのが実情で、それがちょっとなんだか自由に表現するのに引っかかる部分でした。

それに加え、昨年はASKAさんが私の歌詞考察記事について、有難いことにブログで取り上げてくださったこともあり、やっぱり私、目立っちゃってるなぁ…という申し訳なさがありました。

(想像以上に目立っちまった歌詞考察の記事が、こちらです↓)


そんなわけで、歌詞の考察というものは、たくさんの数が集まれば集まるほど価値がある、という考えが常に私の中にあり、機会を見つけては「皆さんも書いてみてはいかがでしょうか?」と、無理を承知で呼びかけていました。

なので、とあるファンの方の「一緒に書きましょうよ」というお誘いに、私はすぐに「いいね!」と思い、このいつも持ってる思いを実現させるのにちょうどいい機会だ!と意気込んだわけです。
二人だけで書くのではなく、多くの人を誘ってみよう、ということで、一旦話は保留になりました。

どの曲について語ろう…と色々一人で考えているうちに、そういえば今年はあのチャゲアスブームが巻き起こった'91年からちょうど30年の節目ではないか、ということで、《「はじまりはいつも雨」を語ろう。》企画が思い浮かんだ、というわけでした。


●「勇気」は、使わない方がいい

誘われたのは、嬉しかったのですが…
瞬間、心の中に、一抹の不安も生まれた。
それは、
書いてみたものが、他の人より劣ってしまっていたらどうしよう?
ということ。

こんなにも「歌詞考察は多い方がいい!」「みんなで書こう!」なんて言ってる私ですら、そんな恐怖を一瞬でも覚えるわけですよ。
これは、”目立っちまってる”私が呼びかけたところで、一緒に書いてくれる人が集まるわけがない。

なので、彼に「やりましょう!」と返事をしつつ、私の中には相反する二つの課題をどう解決するか、という難題が生まれてしまいました。

それは、
「一緒に語る人は、多い方がいい」
けれど、
「一緒に語りたい人は、多くはない」
ということです。

楽しそうだけど、参加するのに勇気がいるものなら、人は集まりませんよね。

なので私はまず、自分の中の、そして参加してくれる方々の「勇気」のハードルが少しでも低くなる構造を作ることが、企画を成功させるコツにつながるはず、という風に考えたのです。


●競争をなくし、共創の場にしてみよう

まず最初に思ったのは、「競争」を感じるような部分を全排除していこう、ということでした。

私を誘って下さった方も曲の考察をよく書かれる方だったので、最初は考察のエッセイを募集するイメージがあったのですが、まずはこれを取りやめることにしました。

代わりに、「楽曲に対するエピソードをなんでも語っていい場所」にしようと決めました。

人を集めたいのに、「お断りする」要素が一つでもあってはいけません
なので、どんな人でも参加できるよう、企画の構造に知恵を絞りました。


noteの方には、最初に参加を呼びかけてみたときに、5、6名ほどの参加者が集まりました。
これでも十分に多いんです。
けれど、この人数ではどうしても、書き手にも読む方々の中にも「読み比べる」、つまり「競争」の感覚が、無意識にも生じてしまう。
イベントを開いた結果、嫌な思いをした、というのはどうしても避けたかったのです。

それで、私はなんとか10人以上の参加者に増やして一人一人への注目度が薄まるよう、何度もTwitterで参加を呼びかけました。
こんなに図々しく告知に徹したのは、自分の人生史上初だったんじゃないかと思います…。


そんなことをやりつつ、参加できる場をnoteのエッセイだけでなくTwitter投稿にも広げようと思い始めました。

「私は長い文章が書けないので、見ています」という声が多かったんですね。
好意的なのに、「見てる」という行動になってしまうのはもったいない。

そんなわけで、ハッシュタグをみんなで共有し、誰でもどんな形でも参加できるという構図を考えました。
これがあれば、きっとお祭りは盛り上がってくれるはずだと。


だんだんとエッセイ参加者が増えていく中で、「競争」が生まれてしまうことへの恐怖はだいぶ薄らいできました。
そして、その代わりに私は「共創」のイメージを、常に脳内に置くようになりました。

「共創」というのは、あれです。
私、Eテレの「デザインあ」という番組の、たくさんの人が円形に並んで一つの対象物をスケッチする企画が好きなんです。

参加者の中には子供からお年寄り、イラストのプロから素人までいろんな属性の方がいて、その方々が自分の座席の位置から見える角度で対象物をスケッチする。
そしてそのスケッチを、コマ送りにつないでいくと対象物がステキな姿で回転しているように見える…というやつです。

「デザインあ」とは言わないまでも、そういうものにしていきたいんだというイメージを伝えたくて、発信を何度も重ねました。


これによって、だいぶ参加への敷居を低めることができたのではないかな、と思っています。

そして実際に集まったエッセイが、なんとなんと、当日だけで42本!
こちらがそのマガジンです。今だに日々増えつつあります。

しかも、ASKAさんがこのマガジンを見つけ、一本一本の記事に目を通し、ブログに取り上げて下さった…。
本当に有り難く、幸せなことだと思います。


●「誰のためになるのか?」と悩まなくていい

なんだか色々書いてしまいましたが、話を戻していくと、こんな風に「企画の敷居を低める」ことに意識を集中できたのは、私の中に、40名という1クラス分の人数への信頼感があったからだと思うんです。

この、実感としての40人の方々は、私が信頼を覚えているのと同じように、私がちょっといつもと違ったことを言っても、嫌いにならずに真意を汲み取って下さる…そんな風に私を信頼して下さってると、勝手ながら思うことができていました。

だから、新しいことを考えて発信していくことが、怖くなかった。
少しの「勇気」も使うことなく、それができた
それに尽きると思います。

そして改めて学んだのが、行動を成功させるためのビジョンなんて、上に書いてきたように、やりながら勝手に生まれてくるものなんだ、ということでした。

当初から壮大なビジョンを描きながらこの企画を考えたわけでもなかったですし、そもそもこのnote自体にすら、最初はビジョンなどなかった。
なのでこの2年間、記事を一本投稿するたびに毎回、うーん、と悩んでいました。
「この記事、一体誰のためになるんだろう…」と。

いわゆる「誰得」というやつですね。
でも、「誰のためになるのか」なんてことは、本当は考えなくていいということも、今回改めてわかりました。

進みながら、「誰のため」というビジョンは掴んでいくのだということ。
そしてもはや、今の私は記事を書くたびに「これは誰得なんだろう」などと考えなくなっていました。
あんなに考え込んでいたのに、とても不思議な気分です。


冒頭に書いたように、若い内にキャリアを築く機会を自分から放棄し、社会との接点を失って、私はずっと一人で苦しんでいました。
私の存在は、誰のためにもなっていない」と。
なぜ人生をこんな風に、無駄遣いしているのだろう、と…。

もちろん、夫や子供のためになっている自覚はあり、そういう自分も結構気に入ってるのですが、それを目的にするのはちょっと重いというか、違うと思うし…
でも自分には、妻であり母である以外に何が残っているのか?と、ずっと悩んできました。

それが、このnoteでの活動を通じて、じわじわと驚くほどに意識が変わっていったのです。

正直に、自分の思ったことや感じたことを、安心して表現できる場を作ることが大事なんだと
それ以外のことは、後から自然と湧き上がってくるんだと。

これに気づけたことは、これからの私の人生に大きな影響を与えていくだろうと思っています。
いや、意識しなければこの感覚も消えてしまう。
「心に花の咲く方」はこの感覚なのだ、と、今のタイミングでしっかり胸に刻まなければと思っています。


ASKAさんのファンの方々は本当に心がまっすぐで温かく、私がこんな気持ちになれるきっかけを生んでくださったのは間違いないです。
それは、ファンの方々の真ん中にいるASKAさんの作る音楽が、まっすぐで温かく、愛に満ち溢れているから

この音楽が中心になければ、「みんなで幸せの顔をして」この素敵なお祭りを楽しむ空気は生まれなかったと思っています。

長々と自分の話をしてしまいましたが、ここまで読んで下さりありがとうございます。

次は、7月に記念すべき「SAY YES」の発売30周年がありますね!

「何かやりますか?」という声を多く頂いてるので、ここで宣言させて頂きますが、次回、私は中心から離れようかと思います。
また同じような企画を私がしてしまうと、自然と同じ流れ、そしてASKAさんのご登場が期待され、ASKAさんのご負担になってしまうかと思いますので…。
もちろん、「#◯◯を語ろう」はいつでも、いつまでも使って楽しんで頂ければと思います。

きっと新しい企画が皆さんの中から生まれてくることかと思いますので、その時はそれを、全力で応援させて下さい。
思い描いたイメージを実現するのに、少しの「勇気」も必要ありませんよ!

空を追い駆けて みたくなった
勇気じゃない あなたの愛で
「砂時計のくびれた場所」('89)

この詞が、noteで掴んだ今の私のビジョンです。

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